先日『宇佐の呉橋を彷徨う呉音霊は懐かしみ通り抜けるのか? No419』 の
「すずたま様への返信補足」2017-01-04 23:23:19コメントで
日本に渡来してきた呉系楚人は姫氏ではなく熊氏で
熊襲に代表される一族だと思われます。
分かっている名前として厚鹿文とかですが
中国の春秋の楚は全て熊の名が付いています。
呉音霊は姫氏だけを導いたのではなく熊氏も
導いていた可能性もありますね。
とコメントしているがこれは
『香春の呉音霊 No403』の20160212後記に記載しているように
「国東半島の姫島の比売語曽神社とは
語曽=呉楚で中国呉楚の姫氏ということを意味していると考える」と
上記の記載した部分とは若干ニュアンスが違っている。
錯誤があるとすれば
呉系楚人は姫氏の血統の楚人で
〇系楚人は熊氏の血統の楚人といったところだろうか。
上述のあいまいな部分は取り敢えず保留するが
姫呉楚という単語を印象付けておきたい。
春秋の楚の歴代の君主には全て『熊』の漢字が付けられており
それで熊氏としたが
九州の熊襲の熊はこの楚王の熊につながるのではないかと感じている。
さて『姫呉楚 ひめこそ』でgoogle検索していて面白いことを知った。
邪馬台国畿内説を唱える内藤湖南氏が
狗奴国の男王の名前に絡む『魏志倭人伝』の卑弥弓呼素の読みを
「ひめこそ」ではないかと言っているのだ。
残念ながら卑弥弓呼素の「呼素」は「襲國の酋長など」を指すと推測しているようで
楚とは結びつけられていない。
しかしながら狗奴国は熊襲が建国したという説は濃厚である。
『魏志倭人伝』では
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
其八年、太守王頎到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。
と書かれている。
魏国であれば九州に逃れた姫氏系の呉や楚を蔑んで
卑彌呼=姫呉 彌弓呼素=姫呉楚とするのは
吉田一氣の妄想に近い話であろうか?
参考 『別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP6』禮月さまのコメント文より
卑弥呼も苗族系?! (禮月) 2017-01-05 13:28:21
「在野の言語学者のAさんが教えてくれたのですが、
「卑弥呼、卑弥弓呼素より和せず」の部分は「卑弥呼と卑弥呼素は仲が悪い」という
解釈以外も学会では無視されているもののあるとの事です。
つまりこの部分は「卑弥呼と卑弥弓呼が前から仲が悪い」のではなく
「陽巫女と姫呉楚が仲が悪い」という解釈が出来るそうです。
どういう事かというと、姫呉楚が特定の個人を著すものではない事と、
邪馬台国(邪馬壹国)の当時の「王都」は熊本の近隣の県にあったと見て間違いないそうです。
「卑弥呼も姫呉だったかもしれない」と彼女は言っていました。
周系呉人と呉系楚人の対立を思わせます。」
以上
この筆者文章より先に記載されています。
すずたま様より姫呉楚について
別の興味深い考察をいただきました。
呉の首都は「姑蘇」(すずたま)2017-01-07 07:39:07
新しい記事「姫呉楚」を書かれていますが、
語曽=呉楚について、関係あるかどうかわかりませんが、
気になるのでこちらに書いておきます。
ひとつめのサイトのはじめの方にあった文字に目が吸い付けられました。
BC473年、呉が陥落したときの首都の名「姑蘇」です。コソと私は読みました。
呉王夫差が逃げ込んだ山も、「姑蘇山」です。
松野連系図によれば呉王夫差の子「忌」が、江南を離れ日本にやってきて、
倭の五王(呉王)に繋がる系統をたてます。
故郷を離れた民はその地の名を望郷の思いで大切にし、新しい土地に持ち込むのは自然。
姫コソは本来の自称は「姫姑蘇」ではなかったでしょうか?
姫呉楚の意味はもちろんあるでしょうが、
やや他称的なかんじがしないでもありません。
新しい記事の御考察には役に立たないでしょうが、ここに残しておきます。
なお、ヒミコと姫呉楚が仲が悪いのは、物質的豊かさを追求する時代(月の時代)になって、
ヒミコの正統ヒ(陽・日・火・霊)の系統が後退したという時代の経過が在ったので、
仲が悪いのは自然であり、「元はひとつだった」ことも当然と考えます。
以上
吉田一氣談
「姑蘇山」については以前かなり調べたことがあります。
それは「阿蘇山」との繋がりに関してでした。
この時には蘇我氏について調べていてその関連です。
全然その時には結びつかなかったのですが
長江流域の呉というものを理解していくと
やはり意外と接点があるかもしれません。
この姑蘇区には寒山拾得故事で名高い寒山寺があります。
張継の「楓橋夜泊」は
日本でのほうが知名度が高いぐらいの歌です。
月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船
日本では詩吟でよく吟じます。
なぜ日本でこの歌が人気があるのか?
やはり春秋の呉との縁を潜在的に感じているのでしょうか。
ちなみに張継の時代には
姑蘇という呼び名ではなく現在と同じ蘇州となっていたようです。
姑蘇城というのは姑蘇山のことです。
もしBaiduで調べるなら姑苏山と記載する必要があります。
姑蘇山は行ってびっくり標高でも60mの高さしかありません。
また日本にも姑蘇山はあります。
広島県庄原市東城町千鳥にある山で953.5mの高さです。
姑蘇山地図
良く分からないのは春秋の呉においてつけられた
姑蘇という意味ですが誰の姑が蘇えるのでしょうか。
「すずたま様への返信補足」2017-01-04 23:23:19コメントで
日本に渡来してきた呉系楚人は姫氏ではなく熊氏で
熊襲に代表される一族だと思われます。
分かっている名前として厚鹿文とかですが
中国の春秋の楚は全て熊の名が付いています。
呉音霊は姫氏だけを導いたのではなく熊氏も
導いていた可能性もありますね。
とコメントしているがこれは
『香春の呉音霊 No403』の20160212後記に記載しているように
「国東半島の姫島の比売語曽神社とは
語曽=呉楚で中国呉楚の姫氏ということを意味していると考える」と
上記の記載した部分とは若干ニュアンスが違っている。
錯誤があるとすれば
呉系楚人は姫氏の血統の楚人で
〇系楚人は熊氏の血統の楚人といったところだろうか。
上述のあいまいな部分は取り敢えず保留するが
姫呉楚という単語を印象付けておきたい。
春秋の楚の歴代の君主には全て『熊』の漢字が付けられており
それで熊氏としたが
九州の熊襲の熊はこの楚王の熊につながるのではないかと感じている。
さて『姫呉楚 ひめこそ』でgoogle検索していて面白いことを知った。
邪馬台国畿内説を唱える内藤湖南氏が
狗奴国の男王の名前に絡む『魏志倭人伝』の卑弥弓呼素の読みを
「ひめこそ」ではないかと言っているのだ。
残念ながら卑弥弓呼素の「呼素」は「襲國の酋長など」を指すと推測しているようで
楚とは結びつけられていない。
しかしながら狗奴国は熊襲が建国したという説は濃厚である。
『魏志倭人伝』では
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
其八年、太守王頎到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。
と書かれている。
魏国であれば九州に逃れた姫氏系の呉や楚を蔑んで
卑彌呼=姫呉 彌弓呼素=姫呉楚とするのは
吉田一氣の妄想に近い話であろうか?
参考 『別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP6』禮月さまのコメント文より
卑弥呼も苗族系?! (禮月) 2017-01-05 13:28:21
「在野の言語学者のAさんが教えてくれたのですが、
「卑弥呼、卑弥弓呼素より和せず」の部分は「卑弥呼と卑弥呼素は仲が悪い」という
解釈以外も学会では無視されているもののあるとの事です。
つまりこの部分は「卑弥呼と卑弥弓呼が前から仲が悪い」のではなく
「陽巫女と姫呉楚が仲が悪い」という解釈が出来るそうです。
どういう事かというと、姫呉楚が特定の個人を著すものではない事と、
邪馬台国(邪馬壹国)の当時の「王都」は熊本の近隣の県にあったと見て間違いないそうです。
「卑弥呼も姫呉だったかもしれない」と彼女は言っていました。
周系呉人と呉系楚人の対立を思わせます。」
以上
この筆者文章より先に記載されています。
すずたま様より姫呉楚について
別の興味深い考察をいただきました。
呉の首都は「姑蘇」(すずたま)2017-01-07 07:39:07
新しい記事「姫呉楚」を書かれていますが、
語曽=呉楚について、関係あるかどうかわかりませんが、
気になるのでこちらに書いておきます。
ひとつめのサイトのはじめの方にあった文字に目が吸い付けられました。
BC473年、呉が陥落したときの首都の名「姑蘇」です。コソと私は読みました。
呉王夫差が逃げ込んだ山も、「姑蘇山」です。
松野連系図によれば呉王夫差の子「忌」が、江南を離れ日本にやってきて、
倭の五王(呉王)に繋がる系統をたてます。
故郷を離れた民はその地の名を望郷の思いで大切にし、新しい土地に持ち込むのは自然。
姫コソは本来の自称は「姫姑蘇」ではなかったでしょうか?
姫呉楚の意味はもちろんあるでしょうが、
やや他称的なかんじがしないでもありません。
新しい記事の御考察には役に立たないでしょうが、ここに残しておきます。
なお、ヒミコと姫呉楚が仲が悪いのは、物質的豊かさを追求する時代(月の時代)になって、
ヒミコの正統ヒ(陽・日・火・霊)の系統が後退したという時代の経過が在ったので、
仲が悪いのは自然であり、「元はひとつだった」ことも当然と考えます。
以上
吉田一氣談
「姑蘇山」については以前かなり調べたことがあります。
それは「阿蘇山」との繋がりに関してでした。
この時には蘇我氏について調べていてその関連です。
全然その時には結びつかなかったのですが
長江流域の呉というものを理解していくと
やはり意外と接点があるかもしれません。
この姑蘇区には寒山拾得故事で名高い寒山寺があります。
張継の「楓橋夜泊」は
日本でのほうが知名度が高いぐらいの歌です。
月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船
日本では詩吟でよく吟じます。
なぜ日本でこの歌が人気があるのか?
やはり春秋の呉との縁を潜在的に感じているのでしょうか。
ちなみに張継の時代には
姑蘇という呼び名ではなく現在と同じ蘇州となっていたようです。
姑蘇城というのは姑蘇山のことです。
もしBaiduで調べるなら姑苏山と記載する必要があります。
姑蘇山は行ってびっくり標高でも60mの高さしかありません。
また日本にも姑蘇山はあります。
広島県庄原市東城町千鳥にある山で953.5mの高さです。
姑蘇山地図
良く分からないのは春秋の呉においてつけられた
姑蘇という意味ですが誰の姑が蘇えるのでしょうか。
モモソ姫の漢字表記は百楚姫で姫呉楚の国の王女かな?と思っていましたがもしかしたら百蘇姫と書くのかもしれません。更に日本武尊の対外的な称号が「白鳳豫」だと伯母が言っていたので、この豫が祖母であるイヨの「ヨ」なのかな?と考えました。中国の上海には豫園があります。上海の東隣は江蘇省で、何となくイヨ・モモソ姫母娘のルーツの臭いがするのです。魏誌倭人伝の卑弥弓呼素は姫姑蘇でイヨの実家の国なのかもしれません。
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日本武尊の称号と伯母から教えられた「白鳳豫」の「白」の部分は「百」の可能性があるとの事です。ピンインで読めば「白」も「百」も同じ「バイ」です。中国人は倭人から聞き取った音に近い読み方をする漢字を当てているとの事なので、「百鳳豫かもね。当時の中国人が倭人語の『バイ』や『パイ』という音を表記する場合には白と百も両方使った可能性は十分あるよ。」とアマチュア言語学者さんは言っていました。「百」と言えばますますモモソ姫と桃太郎に近付きます。桃太郎は日本武尊でもあったのでしょうか?
そして魏誌倭人伝の解読法について、言語学者の彼女は新しい説を教えてくれました。原文ママではないのですが、要約するとこうなります。
「そもそも魏誌倭人伝に書かれている内容が全て魏の時代に書かれた事とは限らない。もしかしたら卑弥呼の事も壹与の事も、倭人伝作成時より過去の時代の可能性も十分にある。寧ろ過去の時代の記述とした方が自分にはしっくり来る。」
との事でした。ヒミコもイヨも姫呉楚(姫姑蘇)も、三国時代より古い時代の話かもしれません。
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備後にも吉備津神社があり、吉備の勢力を削ぐために分裂→支配された範疇にあります。
備前の高梁川の支流が大きく西に逸れたそのまた支流のわきにありますから、遡ったか、あるいは温羅に象徴される呉系の鉄の民は出雲経由で吉備に入った可能性の方が高いと思います。
ヒミコですが、以下はあれこれ取り込んでのオリジナル説であり、いずれ時間が出来たら検討しなおしたいと思っていますので、話半分以下に聞き流してください。
ヒミコは呉とは無関係な、非常に特殊な系統にあると思います。
歴史上有名なヒミコは3代目、と例の藤原某女は言っておられますが、別に女史説に呪縛されるつもりはなく、私はヒミコは日本に来て女史云うところのヤマタイを阿蘇の馬見原近辺(元・真美原、馬の好きな人たちが来て勝手に字を替えたとか)に築いてからの3代目かもしれないと考えます。それより少なくとも千年以上前から歴史に隠れて細々ながら連綿と日の系統を保持してきた一族であり、その名を契丹文書の「費彌国史洲鑑」にある「費彌氏」ではないかと、だれも言ってないけど、あたりをつけています。
一時馬韓にいたらしい関係上、どちらかいうと百済寄りで、結果的に唐や藤原氏には取り込みやすかったし、周~呉とは対立しやすい関係であったと思います。
というより周成立以前に、スメラミコトの系図と古文書を秘匿しつつ、皇統からは離れていたのではないかと思います。
周の建国はBC1000年頃、メソポタミアが大々的に海洋貿易で栄えたソロモンと同時代。豊かな物質文明が花咲く時代です。
その中途に、呉音霊に導かれて呉が建国され、呉の滅亡とともに陥落した都と夫差が自決した山の名「姑蘇」を胸に、呉人は忌に率いられ日本に渡る。
呉の祖である周に太古からあった皇統が引き継がれるよりも以前に、ヒミコの系統はスメラミコトの座を譲らされていたと考えます。
「日を映す鏡=月」「日抱神=陽を抱く月神」「天から疎り日に向かう姫」が日の巫女役をする時代になったからです。それが天岩戸から太陽神が顔を覗かせ鏡に光を映されて光が戻ったという象徴的な神話になっていると思いますが、その事実も隠ぺいされ、アマテラス=太陽女神にされます。
藤原某女の資料では、ヒミコの祭祀に鏡は出てこないのです。どこかからたくさん貰ったにもかかわらず。
大切にされている祭具はヒミの大麻(おおあさ)です。
鏡や榊の祭祀は、月神系のものなのです。
日と月に分かれたのはヒマラヤ近辺に高天原が在った時代(記紀や古文書に云う「上古」、BC8千年以降~?)に起きた、神霊界においても大事件だった、と思います。
だから元は同じ高天原人(東テイ人)だったと思います。
「もとはひとつ」に戻る努力はイヨやモモソヒメの時代からなされてきましたが、近い将来最終的にひとつになるのではないでしょうか(白山姫のククリの働きにより)?
あまり理解を得られないと思いますので、どうぞスルーをおねがいします。
明らかに邪魔が入っていますね。少し控えた方が良さそうです。
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すべて良い方向にいくための過渡期であったと信じます。
私自身は、自分の意見を言うのに「こころに武器を持ってしまう」という悪癖を晒して嵐に参加したかもしれないことを恥ずかしく後悔し、先日もお詫び申し上げたのです。
とくこ様もいわれたように、いつも清明でフラットで淡々としていることを目指したいです。
ヒミコについての自説は、ヒミコと上手くいかなかった先祖か何かのせいもあって?歪みが出がちと思われます。
今は間違いがないよう調べなおしたりする余裕がないので、いったん撤回しておきます。
「姫呉楚」=「姫姑蘇」はひとつの可能性でしかないのかもしれませんが、「蘇」について、ふっと思うところがありますので書いておきます。
ふっと思う、ということが、直観からくるのか妄想かは、全て自分の清明さ清澄さに関わると思うので、今の自分ではあやしい、ということも付け加えつつ。
名前を忘れましたが、かなり前に「中央アジアにあったスメル帝国」という説を出した人があり、洪水か何かで壊滅し、東西に離散して西に流れたグループがメソポタミアのシュメールを築いたということで、興味を持っていたのですが、たぶんそれが禮月様の云われるヒマラヤ近辺にあった王国(高海が原)と関わりがあると思います。
私はそれを記紀・古文書に云う「上古」だと思っています。
いっぽうスメルは、漢字ではスに「蘇」があてられるのです。メルは覚えていないのでまた調べておきますが、
「蘇」はスメル由来?というわけです。
また一方、主基(すき)殿、悠紀 (ゆき) 殿というものがあります。
スは「○にチョン」のあの印を思い出すし、ユに対峙して、より主になるものなのだろうと思います。
このスが「蘇」でもあれば・・・?
「姑蘇」とは・・・?
もやもやと考えが浮かびますが、またいいかげんなことを書いてしまいそうなので、おさえておきます。
実生活上で片付けねばならないことが山積していますので、諸々の垢・埃を一掃してから、このことについてはまた書き込ませていただくかもしれません。
何度目の正直になるのか(笑)、しばらく静かにします(たぶん)
呉音神祭祀の成就をお祈りします。
姫氏出身の姑?姫氏に嫁いできた姑?それとも姫氏の始祖にとっての姑???
古代中国黎明期の国家である夏・殷・周はいずれもに同族が建国した国で、この3つは時代が重なる部分もあったと最近は考えています。夏も殷も建国神話が酷似しており、王妃が氷の粒を飲んだり巨人の足跡を踏んだりして王朝の始祖となる子供を産んでいます。つまり王妃の夫が父親ではないのです。夏も殷も父親の血統はあまり重視されていなかったのかもしれません。母権性だったのでしょう。娘に家督の継承権があり、もしかしたら娘の夫となる者は娘の母親-つまり姑に認められないと王位を継げなかったのかもしれません。
姑とは崑崙山脈とかヒマラヤ山脈に高海原があった頃の、超古代国家の始祖だった女性の事かと思われます。もしかしたら女性司祭か何かだったのではないでしょうか?その女性司祭が祭っていた女神様か彼女自身が神格化されたかのどちらかでしょう。女神様の場合は荒吐女神の大元になった女神様を祭っていたとか…現在ではもしかしたら西王母がその名残を受継いでるのかな?と思います。
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問題は、姫コソ神社の祭神が、その存在であると言いきっていいかどうかなのでした。
わたしは言いきっていいのだろうと思います。
誰にもいまひとつわからなかった「姫大神」は、姫氏の祀る姫大神であり、宇佐神宮の第2殿の姫大神でもあり、日高見王国の祭祀女王の祀る神であり、岡山にも何故かたくさんある姫コソ神社の姫大神でもあるということです。
西王母やヒッタイトのアリンナの女神もその偉大なる女神(実在女性でもあった)由来ということです。
「娘の夫となる者は娘の母親-つまり姑に認められないと王位を継げなかったのかもしれない」ということは、アマテラスが子のオシホミミでなく孫のニニギを降臨させたという神話の謎にも通じ、これにはからくりがあるのだろうということになります。オシホミミ隠しがそこにあるのではないでしょうか。オオヤマツミの娘たちが正統をついでいたということにもなります。
その女神の系列が、ある時期日神系と月神(ツキヨミ)系に分かれる神霊界含めての大騒動があったと考えれば(ヒミコ系タマヤ古文書による)、ヒミコもその女神の後裔ということになります
9044 4164
3×3の魔方陣はただの数遊びではなかったようです。
荒吐神やツキヨミやヒミコやククリ姫の謎などが全部解けてゆくでしょう。
禮月伯母様の、
「女神荒吐は太陽女神とも大地母神とも言われており、女神アマテラス・白山ククリ媛そしてイザナミの三つを併せ持った様な女神」
が、大きなヒントとなりました。
五は魔方陣の真ん中の数で、八体の仏を配した大日如来にも通じるのかもしれません。
呉も楚も、その姫大神を祖神としたのでしょう。
須弥山にも通じるのだと思います。
カイラス山を須弥山とし、カイラスを左回りに廻ったボン教の民(呉音霊の祖たち?)も関わってきます。
カイラス・ヒマラヤ含むユーラシアの屋根の白き山々は、一度海の底に沈んでいます。
そこに龍宮が関わる意味もあります。
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「大ヒルメ、ククリ媛、そしてイザナミは荒吐女神から三つに枝分かれして行った様なものじゃないかな?そう女のコメンテーターさんが言ってたわよ。つまり、夏も殷も周も同じ大女神が始祖で、荒吐の原型みたいなものだったみたいなの。」
一度ヒマラヤや崑論も水没した時があったのか、その時に龍宮の豊玉姫になったのかもしれません。月や星を便りに物質を運搬する海人になった集団にとっては、荒吐が月や星の女神であるオオヒルメやカヤノ媛に、農耕を重な生業にする様になった集団には太陽や大地の女神である陽女神(ひめがみ)やイザナミになって行ったのだと思いました。(本当はもっともっと複雑かな?)この陽女神こそヒミコと最も関係が深いのかもしれません。この陽女神という仮称は伯母がよく使います。大地母神イザナミの系譜はオオヒルメやカヤノ媛よりも櫛稲田姫の方がより近いと思います。
元正女帝の日高見国とは、崑論の大母神のオリジナルに限りなく近い、荒吐を祭祀していたと言っていました。陽女神と女神月読や(オオヒルメ)やカヤノ媛を結びつけるククリ姫の役割を果たす予定だったのが、元正女帝だったり。元を正す為に行動したから「元正」天皇なのかもしれません。
天皇とは、大母神・荒吐の血を引く者でないとなれない存在なのだと思います。だから荒吐の血を独占しようと争いが起きたのかもしれません。自分の一族以外との婚姻を禁じる為に、荒吐の娘達は簡単に男性との交流が出来なくなった。これが父権制で男尊女卑の思想なの始まりなのでしょうか?
中南米のコパン王国の始祖・ヤシュクック・モも女性で司祭長の様な役割を果たしていたというマイナー説があります。ヤシュクック・モのモの部分が「母」を意味する言葉で、チベット高原からボン教の思想を携えて中南米迄渡って行ったのかもしれません。元正天皇とも共通します。
北燕と勃海国は元々、龍宮の豊玉姫になった女神を崇拝していたのでしょう。首都の名前が龍城とか上京竜泉府や副首都が東京竜城府だったからです。
倭国と倭人居住区は別けて考えないと、東アジア古代史は正しく見えてこないでしょうね。奈良や京都から視点を中国大陸や、時には中南米迄動かさないとわからない事ばかりかもしれません。
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6752
私はこの両性具有の人間の寿命を司る貴人・西王母の部分に、両性具有の少彦名と気比神宮に残る女版桃太郎の姿を思い出しました。
少名彦名は両性具有時代の西王母と完全にイコールではないにせよ、≒ではないでしょうか?
仮に両性具有の少名彦名をプロト少名彦名とします。この少彦名から大女神・イザナミと大祖神イザナギに別れたのではないでしょうか?つまりイザナミもイザナギも元は一つの存在だったという事です。
蘇る姑は舅でもある、プロト少彦名・西王母とでも言うべきなのでしょうか・・・
西王母が両性具有なら夫がいなくても子供を設けることが出来ます。少彦名の子供の双子の男女がイザナギとイザナミでは?
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