よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№14(原田宿~内野宿)

2011-12-26 19:12:54 | 長崎街道歩き
10月初旬から中断していました長崎街道歩きを再開しました。
2ヶ月間の間に木々は紅葉してもう落ち葉になっています。
今回はこの街道の難所「冷水峠」へ挑戦します。

JR原田駅に8時に到着。
前回は気付かなかったのですが、原田駅には伊能忠相の像があります。



原田駅から前回ゴール地の筑紫神社に向かって歩きます。

約1時間ほど歩くと「山家」に入ります。
すぐ目に付くのが「郡境石」これには西「御笠郡」東「夜須郡」と書いてあります。



「敬止義塾跡」があります。説明文を見ると

「福岡藩士であった杉山灌園が明治10(1877)年頃に自宅の離れで塾を開いていた。
近隣から30人ほどの塾生が集まり寄宿しているのもいた。
教科書として日本外史、十八史格図書などが用いられた。
明治23(1890)灌園が死去した為閉鎖された。」
昔の人は向学心に燃えていたのですね。





「山家宿」は黒田藩二十四騎の一人である桐山丹波が慶長16(1611)によって建てられました。
桐山丹波は初代代官となり今でも彼の碑が立っています。







山家宿の東構口には大庄屋「近藤弥九郎」の碑が建っています。



説明文によると
寛保二年(1742)山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡です。大庄屋とは江戸時代に触
(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた役人のことで各村への年貢の割り当てや
納入、土木工事、参勤交代のときの人馬役など広範囲にわたり村政にかかわっていました。

街道は冷水峠に向かって歩きます。
私何度か車ではこの道路を通っていますが歩いていくなんて初めてです。
道路には大型車は有料を通りましょうなどと書かれています。
勾配は緩やかでそんなにきつくはありませんが、ここは大型トラックが何台も何台も通っています。
歩道があればそちらを歩こうと思うのですが歩道もなく仕方ないので道路の隅を歩きます。
然し、カーブの多いこの道路、対向車は下りになりますのでスピードを出してカーブを曲がってきます。
ガードレールには車がこすった跡もあります。
このトラックが私達の方に突っ込んできたらどこに逃げようか?など周りを見ながら歩きます。
トラックの運転手の人にすればどうしてこんなカーブの多い道を歩いているんだい?
などと思われますがこの道は長崎街道になっていますので歩かないわけにはいきません。
それでも何とかトラックを除けながら歩き続けます。
体はヒートテックをつけているから暖かいのですが指先は手袋をしないと寒いし吐く息も白くなっています。
長崎街道迂回路という看板がありそちらに行こうかなと思いそちらに向かいますがそこは小さな道で
ちょっとでも足を踏み外すと谷の底。怖くなり元の国道に戻ります。



上西山バス停から国道に別れを告げ旧道に入ります。
先ず目にするのが庚申塚。これは道路の守り神なんでしょうか?
旧道から再び国道へ。すぐ大根地神社の案内図があります。
地図では大根地神社の方に行くようになっていますがちょっと解らなくなり近くの人に
訪ねようとしますがこのあたり誰も歩いていない。仕方なく民家の方に聞きました。
街道は、土手沿いの狭いあぜ道?だそうです。
よく見ると看板らしいものがありますが、字が消えて見えません。



この西山にも御茶屋さんがあります。
近くの畑で仕事されている人に聞きますとその方が吉野屋だそうです。
隣には長崎屋がありました。
このように街道の御茶屋さんには地名がついているのが多いです。
ここは長崎街道、今までいくつもの「長崎屋」さんに遭遇しただろうか。



しばらく歩くと「大根地神社」の看板が見えてきます。
ここから山道に入っていきます。



10分ぐらい歩くと大根地神社の鳥居が見えてきます。



石畳の道があります。
シーボルトは革靴より草鞋の方が滑りにくいと書いています。
木々に太陽が遮られ寒くなってきました。



首切り地蔵にやってきました。
この首切り地蔵には伝説があります。
「悪者が連れのものを殺した。横の地蔵に「誰にも言うな」というと地蔵が「わしは言わぬが
われ言うな」と言った。びっくりした悪者は地蔵の首をはねた。
何年か後2人連れの旅人の一人が地蔵の首のないことを自慢げに話した。
連れは殺された人の縁者だった。地蔵の忠告を忘れ話した悪者は仇を討たれた。」



この首切り地蔵の辺に冷水の源流でしょうか、湧き水があります。
説明文を読むと
「流れの冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。これが冷水峠の名の由来と
言われている。英国の初代公使オールコックはその著「大君の郡」でこの峠の景色の
素晴らしさを著し、祠の横で休む旅人を描いている。」
この冷たい水が冷水峠の名になったそうです。



荒田の鳥居に出てきました。もうここから内野宿まではあと少し。
お腹がすいてきました。時計も12時半を廻っています。
どこか、食堂でもと探しますが、何せ山の中 食べる所なんかありません。
仕方なく保存食として持ってきたロールパン、バナナを食べお昼にします。
(この街道歩きでは必ず少しぐらいの食料を持参することにしています)



内野宿は、慶長17(1612)黒田藩の命で黒田節で有名な毛利但馬が建設にあたりました。
但馬が大隈城主になった後は内野太郎左衛門がその任にあたりました。
そこから内野宿の名前になったのでしょう。
当時内野宿は200軒の商家や旅籠、陣屋などがあり筑前六宿では木屋瀬宿に次ぐ
規模でした。
現在内野宿は国道建設から外れているため江戸時代の道路がそのまま残り当時の宿場の
名残が残っています。















内野宿を歩いていると肥前屋に長崎街道案内所というのがあり入場料100円を払い
中に入ると先ず見せていただいたのが内野宿案内ビデオ。
ビデオを見ていると疲れがどっと出たのか眠くなってきます。
寝てはいけないと思い立ち上がって展示品を見て廻ります。
そしてその館の方にいろいろ質問してみますが、この方無口なんでしょうか、
あまり話してくれません。
街道に興味があってみて廻っているのですからもう少し積極的に内野宿の魅力とか
何かを話して欲しかった。

内野宿を見て廻ったらもう2時半になっています。
本来ならここで内野駅から帰ろうかなと思ったのですが、内野駅は列車の本数が少なく
次回ここから出発するのには不便ですので福北ゆたか線の走っている桂川駅まで歩くことにします。
桂川駅には3時20分到着。すぐ25分発の博多駅行き快速に間に合いました。



今日もGPSを持って行ったのですが、どうもGPSの調子が悪くこの行程が記録されていませんでした。