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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの郷土史:信長の大船と安土城

2012-09-03 19:06:20 | 安土城址

信長の琵琶湖戦略と大船
 =大船から安土城天主そして= 
    県主催の歴史講座を受講して
      
(この日記の掲載: 9月7日~9月13日)

またまたこれは一体なんですんや、このタイトルは?
これは滋賀県が主催されている近江を舞台にした歴史、文化全般
にわたる連続講座(多岐にわたり頻繁に開催して下さいます)のレ
ジュメのタイトル、当日の講座の内容です。


       信長が建造した大船 イメージ復元模型
 安土城考古、長浜城歴史両博物館編、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

今日は信長が神になろうとしたお話です
講師先生のお話を私なりの理解で短くまとめると、戦国時代の、そし
て信長のお話です。当時は周囲の大名と同盟を結んだり裏切りを繰
り返して領土を拡大していく時代です。その戦いに勝利して信長は室
町幕府を倒し強力な中央政権(織田政権)を確立。さらに右近衛大将
(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任し勢
力を伸ばしていきます。おおよそ天下を牛耳って更にその上の権威を
求める信長、しかし乗り越えられない権威、それは天皇。(一部ウキペデア
より抜粋引用)

それも天皇と同格以上でないとお気にめさない
それをも乗り越える権威は天皇と同格以上の神になることだと当時の
宗教思想を集大成し突っ走ります。それは東国の軍事的脅威(武田氏)
がほぼ払拭された段階から信長は権威の誇示に傾注したことを意味
します。

 
              同書、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

その権威の誇示、どうやって・・・、
琵琶湖に大船を浮かべます。そしてその船を突如解体して安土城
の築城へと進んで行きます。その城は石垣造りの元祖です。そして
天主には障壁画を。船(元々目的は軍艦です)、城(同、要塞です)、
天主は神殿?(元々はてんしゅは天守であり城を守る為の司令塔
です)、信長の造るもの、やることはどうもあやしいぞー??

 
        同上引用 浮かぶまさに箱船の大船

怪しい?
大船、
元亀4年(1573)に岡部又衛門に命じて巨大船の建造を命
じます。ところがその船は45日で完成させています。それも箱型で
ありしかも櫓らしいが大屋根がありと見るからに船としては不安定な
代物、水に浮く建物です。ところがこの大船は安土城完成の前に
解体してしまいます。同じく岡部又衛門に命じて建てた安土城、あの
金ピカでしかも城内は外から丸見えで且つ直線の大手道を無防備
にも何か所かの枡形虎口を隔て堂々と築きます。城外からはやたら
石垣(必ずしも石垣が土塁比、防衛に優れてはいない)が目立ちます。
天皇を迎える本丸(清涼殿と相似形)は天主より一段下にあります。

 
   天皇を迎える本丸が天主の一段下 (講座でのスクリーン資料)

 参考:安土城の大手道、扇形の石垣に関する日記(そのページ)

権威の誇示が目的で戦術的評価はゼロ
建造の大船は港湾設備がなければ機能せず、せいぜい定点間の物
資、兵を運ぶ程度。安土城は上述の通りで無防備。安土城がその後
の城郭の先駆となり以降は石垣が城のシンボルではあるが、石垣で
はなくて軍事目的の強固な土塁の城の例はいくつでも存在する。

 (参考)
 
   難攻な土塁の例(そのページ玄蕃尾城)この城には石垣はない

     玄蕃尾城の土塁 
  

   安土城
     
     
直線の大手道       枡形虎口          石垣
       
       
(これら小サイズの写真はクリックで拡大します。以下同じ)

    
   小谷城にも明らかに権威を誇示する石垣が

    
                               

 
 天皇を迎える前に本丸部分をを有料で民に見学させた(同スクリーンから)

ならば信長はこれら評価ゼロをなんの目的にしたの?
大船
は信長の力を視覚的に誇示し、これを見た者を承状させるため。
安土城は大船を上回る視覚的装置でありこれにより大船は必要なく
なった(安土城と大船の二つはいらない)。石垣はその他の金箔瓦
絢爛豪華な装飾と同様権力の誇示以外の何物でもないとわけです。

         
            金箔瓦       障壁画

 
     信長の大船がなんと大きいことか (同、スクリーン資料から)

信長は神になろうとした、なぜ? 
天皇
は農耕神、すなわち人間が生きていくために重要な要素の神です。
そこで信長は農耕を可能にする水、太陽を命の元として神威の身に纏う
天皇と同格以上の神になる必要があったのです。

       
  当時、安土城の下は琵琶湖(左)、と現在の田園風景
       
    (同、スクリーン資料から)

信長と信玄:秋季特別展
信長の統治戦略として自己神格化、その流れは大船の建造ー安土
城築城ー天皇行幸で完成する。そのエポック毎に信長と武田氏の抗
争があったと大沼氏は語られます。秋の当博物館での特別展でこの
辺を紹介されます

お断り:今日の日記は、
今日の講師は大沼芳幸氏(安土考古博物館副館長)です。織田信長
は自身の権威誇示の為に「城に石垣」を、同誇示に「二つは要らない」
自らが「神になる」ことに注力したのでは? と私なりに講師先生のお話
を理解して日記にしました。

    
     塩津浜歴史研究会編      上述の両博物館編

大沼先生のお話、意図を間違ってお聞きしているかも知れませんが、
あくまでも私的ないちブロガーのロマンとお許しください。それほど目か
らウロコの面白いお話でした。特に先生はこれが私の持論だと一般解
説的なお話ではないのがとってもよくあっという間の一時間30分でした。

まだまだ盛沢山の事例(信長公記に記載の関連個所。信長がなろうと
した薬師如来的な神。甲斐、駿河を手に入れまた富士山をも手に
入れた、などなど
)のお話がありましたがまた機会を見て紹介します。

この記事の記載については主催者のご了解を頂いております。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

        *************

             情報提供です
   
          秋季特別展: 信長X信玄  
            =戦国のうねりの中で=

                    
会場:安土城考古博物館      
                             会期:10月6日~11月11日
                   詳細は主催者にご確認ください
                                
                               
                                 安土城考古博物館
                  (拡大します)
            



 

コメント (6)
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