物生山城址(むしやまじょう)
滋賀県彦根市
元亀争乱(1570-1573)のお話です
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:2月5日~2月11日)
この3年間の 「信長と長政」 の戦いを 「元亀争乱」 と
今日訪ねた物生山城址と佐和山城址の位置関係 両者間の尾根を歩けば2時間程か
今回の見学とこのブログの内容は、
信長の近江侵攻にあたり、傘下にあった江北(近江の北半分)の浅井氏が造反した
ことから浅井攻めを開始。その一環、浅井氏の居城、小谷城の南に位置する佐和
山城を叩くために用意周到な信長は包囲網の付城(砦)4箇所を築きました。その
内の一つが物生山城で、今回はその城址の見学日記です。
松下 浩 氏 (滋賀県教育委員会 文化財保護課)のご講演を先ず拝聴しました
信長は四つの城(砦)を築く (下の絵図をご覧ください)
元亀元年(1570)に佐和山城に籠る浅井氏家臣磯野員昌(かずまさ)を包囲する
ため東西南北に4つの砦と鹿垣(ししがき)を築いたと「信長公記」に書かれてい
ます。
これには佐和山城の磯野員昌もたまらず降参、開城!
この包囲に員昌は震え上がってしまい(でしょうな)、信長に寝返る ことになり
ます。しかしこの時代、内通、寝返りは特別なことではなく、なんでもかんでも
切り合いの合戦をしたのではなく、出来る事なら命がけの戦いはしたくない、だ
ったようです。
この攻防は 姉川の合戦 直後のことです。
佐和山城を包囲する4つの城
(前回の別の講座で頂いた資料に私が追記)
戦わずして城を落とす
上の絵図を見れば、素人が見ても(なんでしょうか)、磯野員昌さんは手も足も
出ませんよね。 佐和山城と物生山城は尾根を歩いて2時間位でしょう、目の
前に迫る4箇所の砦から狙われている。それも信長は攻撃を仕掛けず持久戦。
これでは員昌の精気も消失、信長の作戦です。
元亀争乱はどんな戦い?
元亀元年(1570)6月、織田信長の近江侵攻が開始された。 以後元亀四年
(1573、天正元年)8月の小谷城落城までの3ヶ年の戦いを元亀争乱と呼んで
います。 その間、姉川の合戦の他幾つかの戦いが続きますが、今日見学し
た佐和山城を落とす作戦は名前が付く合戦にはならず信長の手に落ちます。
堀切 いよいよ城の中核部に入ってきました
主郭 に到着です
今は樹木に覆われていますが当時は砦が佐和山城を睨んでいました
木立の向こうに佐和山城址が見えています
このへんがまたすごい!
この主郭の場所は佐和山城から伸びる直線上の尾根にではなく、鉤形に曲がっ
た別の尾根上に築かれています。 直線上だと佐和山城から見えません。よく
見えるところに造った、これがすごい!(上の絵図の黒い→の所をご覧下さい)
では、出発から途中の様子です
最寄の鳥居本駅(近江鉄道)
講演会場から出発 もう城の中なんです
佐和山城の北端、山越えの道を登って行きます
その山越えの道、かもう坂通り往還です
この主郭の周りには曲輪、横堀、土橋などが今もしっかりと残っていました。
用語解説
堀切 横堀
土橋
探索を終えて帰路につく参加者
この歴史講座は毎回すぐに定員を超える大人気です。 この日も100名を優に
超す参加者でした。 私はもう7年以上参加させてもらっていますが、年々参加
者がUPしています。
信長の佐和山城包囲網に関する私の過去のブログ
↑ ここをクリックしてください
この包囲網の別の場所のお話です: 前回の見学日記です
今日もご覧下さいましてありがとうございました