孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

優しさ思いやりの人情愛情(感情)の裏には、裏切り嫉妬や憎悪の感情が隠れています。

2015年09月22日 | Weblog
私は個人意識丸出しでもって生きています。
だから己が思うままに生きてきました。
しかし個人意識には裏表の矛盾があります。

ちなみに薄情の裏には温情があります。
そして温情・人情・愛情の裏には嫉妬や憎悪が隠れています。
だからそれら情愛を表し出しても、それが自分の思い通りにならないときがあれば、そこで裏切られた思いになって嫉妬し憎しみ恨み、また悲観することにもなります。

先日のことですが、私とご縁のある独身女性が久しぶりに来られて色々と話している中で看護師をしている妹さん親子の近況のことを尋ねたら、今は自分の事で精一杯だから、そんなことに関わる暇も関心ありませんが如くの会話になりました。

ちなみに私も自分のことで精一杯生きてきましたから、面倒で余計な両親の命日や年齢も、また妻や子供やその孫らの誕生日や学年年齢も、また妻との結婚記念日や何年経過したかも記憶にありません。
だから入学卒業などを含めた記念日にプレゼントした覚えがありません。
しかも独身息子のことをほったらかしにしていますから10年以上は顔を見ていません。

そこで皆さんのタイプ・性格は如何ですか、
それがどんな性格であっても、その裏表・矛盾を多く味わったはずです。

ちなみに個人意識に嫌悪感・罪悪感を持っている人ほど人情愛情・義理恩義に厚く私は正しいと良い子ぶる偽善を持っているようです。
だからそれだけ裏切られた思いになったことも多いはずです。

ところが自分の事で精一杯であれば、それがどんな結果になっても自己結果であり自己責任だから何とか納得出来ます。

そして個人意識丸出しだからとて人情愛情に疎いわけではありません。
また恋愛や性愛に疎いわけでもありません。
だからそれらに関わることになれば精一杯出すことにもなります。

しかし先ほどの独身女性も私も同じですが、身近な両親や親戚兄弟や職場の先輩同僚後輩や世間の人たち大勢の醜い一面を事実にして見たり聞いたり味わったりしてきたことからして、それらの中に己が巻き込まれないためにも、また自分の性格気性を自覚しているだけに尚のこと、それら面倒なことになるのを避けるために自粛・セーブ・縮小しているようなものです。

それでも私を必要とされれば嬉しいだけに、その思いを叶えてあげた気にもなりますし、またその楽しさも味わえることでしょうが、しかし矛盾意識を持っているからにはそう簡単にうまい具合にはいきません。

だから尚更に自らが先んじて出しゃばり、口出し手出し足出し余計なことはしません。
然るにほっとくわけです。

となると尚更に個人意識丸出しでもって自分の事だけに精一杯になるしかありません。
でも人間ならばの人情愛情・情愛性愛も確り持っています。
だからその個人意識が原因の不平不満から始まる諸々の感情や精神が隠れていても出て来る時があります。
然るに前回投稿のネットショッピング欠品の事例が如くになるわけです。

然るに自他共に「どうしようもない」となるのです。
だから出来る限り自己縮小していなければ(直接的にも間接的にも)自分が困ったことになるだけです。

でもそんな中にも互いが意識しあう関係、互いの理解が深い関係、個性感性を認め合える関係、否定反発束縛の無い自由関係であって、その関係が正常に続く限りにおいては面倒なことには成り難いことでしょう。
そして互いがそれらを味わいながら生きていけます。

だから個人意識丸出しの人間関係であっても何とかうまい具合に事が進むこともあるのですが、それだけの自力自信の精神力も必要になります。

貴方なら何れを<選択>しますかと、貴方の意識に問いかけているようなブログです。

2015年09月21日 | Weblog
食って寝て糞をしながらにして生きることは古今東西・老若男女・誰も皆が同じですから公平です。
また何も持たない裸にして生まれ、また同じように裸で死ぬのも誰も皆が同じで公平です。
然るに孤独にして生まれ育ち孤独にして死にますから誰も皆が同じで公平です。
然るに自分さえ良ければの個人意識でもって自分の為に孤独の自由でもって独自独歩で生きていけるのも皆が同じで公平です。

ところが孤独では寂しいからと人間関係を築くと自由が束縛制限・支配されることにもなり自由と公平さが失われます。

また生きているだけでは面白くないからと趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽を求め味わうとなれば人それぞれに違いますから公平ではありませんし、それらの型枠形式に自由が束縛されます。
となると当然ながらそこには特別な差がありますから、その差のある特別意識を持ったことになります。

然るに多くの人は不自由・不平等・不調和の特別な人間関係の中で生きることになりますから、当然ながら不平不満が出てきますが、その不平不満を補うのが趣味嗜好娯楽などの特別な自己満足です。
然るに不平不満と自己満足の矛盾・苦楽の喜怒哀楽でもって生きていることになります。

そこで頑張らないで欲張らないで見栄張らないで、余計なことに無理しなければ「楽ラク」に生きていけます。
そして事実にして楽に生きていれば世間とは違った喜び楽しさが味わえるのですが、しかし巷の特別な自己満足を味わっているだけに味気ないようです。

だから楽に生きていけることの事実を味わいながらも、それでは味気なさ過ぎるから、やはり特別な「おまけ」=「楽しく生きる」ことを求めるようです。

そこで私としては摩訶不思議全般の事実や自然界の出来事や素朴な生き様の中に楽しさがあることや仮初の至福を味わえている事実事例をブログに書いたり、またメル友や電話での会話や私の生き様を見物に来た人たちにも同じようなことを話しています。

しかしながら巷の特別な喜び楽しさとは格段に違いますし、また事実にして味わっていなければ興味を示す程度で終わってしまいます。

しかしメル友や会話相手がいることは私にはそれが変化刺激の喜び楽しさになります。
だから微笑み笑顔大笑いしながらも楽しく過ごせます。

そして互いを否定反発しなければ、互いが認め合っていれば、そのままがずーっと続きますから、それを思い願い期待することにもなるのですが、
しかし残念なのは仮初の一時で終わり元の孤独静寂に戻ることです。

またそれだから、次に同じことがあればそれがまた喜び楽しさになります。
しかも静寂の中で心穏やかな素朴な生き様を味わっていることで十分満足していますから、メル友や会話があることは特別な付録「おまけ」になります。

ところが多くの人は不自由・不平等の中でその苦楽・喜怒哀楽の繰り返しばかり味わいっていますから、然るに巷の特別な「おまけ」ばかり味わっているから本命の「生きることの価値」を味わっていないかもしれません。

だからそれを言い換えると、時たまに仮初の「生きることの価値」が味わえているのが特別な「おまけ」になります。
然るに私との生き様とは逆になります。

だから多くのお金を使わずにして単純に楽しく遊んでいる私とは違って、大枚をはたいてまでも特別な「おまけ」の苦楽を買っているのが皆さんにあてはまります。

例えば私んちに来た子供が庭で棒切れを振り回したり焚き火で楽しく遊んでいるのと大金でもってレジャーランドで楽しんでいるのとの違いです。
また私が自然界の静寂を味わっているのに方やカラオケや飲酒で騒いでいることの違いです。
なのにそれに気付かずにして特別な「おまけ」ばかり捜し求め欲しがっている事実があります。

ちなみに娯楽で楽しむことを否定しているのではありません。
貴方なら何れを選択しますかと貴方の意識に問いかけているようなものです。

この先で「祭りのあと」にならないように今から心して生きていくことが肝心になります。

2015年09月20日 | Weblog
前回投稿のネットショッピングでの欠品問題も「仕組まれ」たことになりますが、私の性格からしてほっといたのですが、
よく考えると三万六千円となれば月五万円の年金暮らしからすれば大金ですから、勝手に強制的にギフト券で処理されることに違和感が出てきて、
そこでほっとけずに「何とかしなければ」と思い立ったのが原因からしての経緯が前回の投稿内容となったのです。

ところがその「仕組まれる」ことに無駄が無いはずなのに、そのことに気付かなかった私に対して、ほっといたのでは無駄になるから「気付きなさい」と一ヵ月後に再度仕組まれたことになります。

そして「私は正しいからして<怒りに火が付く>過程・危険性を実感体感しました」の内容になったのです。

だから思わぬ出来事になることは「お仕組み」ですから、そのお仕組みに気付いて適切な対応や選択をすることで難なく乗り切ったり、また己の意識の有様に気付いたり、生き様の方向性が決まったりします。

ところが更に気づいたのが、
ネットショッピングのお陰で過疎地まで配達してくれる時代の便利さがありますが、その便利な仕組みを活用するにもPC操作や用語例を知らなければ無用の長物になります。
それが「今どきの若者」であれば当たり前のように使いこなせますが、
戦中生まれの「昔気質の私」にすれば(歳に似合わない)PC操作が出来るだけの自力をよくぞ身に付けていたとして自らを褒めることができました。

それを言い換えれば、今どきの若者がやがて昔人間になったときに、その時代に適応できる老人になっているか否かでその老後の生き様が大きく異なることになります。
だから(老後になるほどに)自分に難なく出来る<自力>を多く持つことの重要性に改めて気付くことが出来たのです。

それが他力依存的に生きてきた人が老後を迎えたときに気軽に頼れる人がいなければ街中にいても思うがままには生き辛くなります。
そして今の時代よりももっと高度な自力が必要になっていると思います。

然るに時流に乗れなければ世間に疎い孤立した生き様になるのです。

だから「今どきの若者」が「昔人間」の立場に巡り巡って来ることを今から自覚認識しておく必要があります。

何はともあれ自力と自信の精神力を磨き高めていなければ精神世界でなくても生き辛くなるのが老後であり、また死に際の結果も望まぬ方向に向いていくかもしれません。

とにかく諸悪の根源である不平不満が出難い生き方にしなければ予想だにしなかった結果で人間を終えることは間違いないようです。
だから「祭りのあと」にならないように今から心して生きていくことです。

私は正しいからして<怒りに火が付く>過程・危険性を実感体感しました。

2015年09月20日 | Weblog
大手のネットショッピングの欠品によって振り込んだ金額が返納されずに「ギフト券」になることを始めて知ったのですが、当初は次の買い物に使えるから「いいさ」と精神は穏やかだったのですが、
約一ヵ月後の昨日、ギフト券の有効期限が一年間ということ、そのショッピング会社でなければ通用しないことからして何となく不満になり、
そしてコンビニ振込みで面倒臭いことをしたこと、欲しいものが届かない欠品でわずらわしいことになったこと、形式的な文面のお詫びだけですまされたこと、
などからして不満に火が付き、その不満を解決する窓口が見つからずにイライラし始め、年寄りには馴染みのない「カスタマセンター」なる文字がページの終わりに小文字で書かれていること、

そこへ電話するも本人確認で馴染みのない複雑な取り調べが如くになり、記憶していないメールアドレスのメモを探し出して慣れない英数字で発音することに四苦八苦し、

結果的には現金の銀行振り込みで15日後に受け取れることになり、そこでまた振込銀行の口座番号を聞かれ、それを探し出しても、慣れていないから四苦八苦するうちに、

じゃなんで欠品の場合は強制的なギフト券ではなくて現金振込みで処理できることやその手続きに必要な諸々を予め解り易く明確に記入していないのか、となり、
始まりの穏やかな不満から次第に感情的な怒りに火が付き出した感じになりましたが、その不満の執着からして感情が次第に高ぶっている様を我ながら自覚認識しての電話でしたから冷静さを保ち、窓口の女性に責任は無いことを言いながらも、やはり社長に文句のひとつでも吐き出したい気持ちになりました。

ちなみに世間で「片思い」からストーカになったり、また下着泥棒や覗き魔や痴漢になったり、恋愛感情から嫉妬に狂い燃えることになること、また軽いお仕置き程度から次第に仕返し報復復習に燃えてぶっ壊したくなる破壊意識に到達すること、

すなわち「成り行き任せ」で殆ど腹立ち怒ったことが無かった私なのに、軽い不満から次第に発展して怒りに火が付き手におえないばかりに狂うことになるかもしれないことを・・・そんな経緯を我が身でもって自覚できました。

然るに「不平不満が諸悪の根源」であることを未熟な我が身でもって実感できたのです。が、
しかし私が仙人が如くになっても「持って生まれたものは絶対に消し去れないこと」
然るに「突発的」に何を仕出かすことになるやも分からないのが人間だと私自身でもって自覚納得確信しました。

だから柵シガラミから離れた過疎地でもって心穏やかに暮らしていても、なんかの不満・きっかけからして自らが真坂の有事を引き起こす危険性・危険度を十分に持っていることです。

然るに「自らの精神」を常に穏やかにして「客観的」「冷静」「安定」にして「内なるものを見つめ直す」自問自答&見定め見極めることができる、そんな精神=精神安定を維持していくことの難しさと大切さを改めて自覚できました。

精神世界は己のためです、そして過去が先生であり、今が生徒になる、だから独自独歩になるわけです。

2015年09月19日 | Weblog
自問自答しながら生きていくことは、己の過去の諸々が先生であり、現在の自分が生徒になる、だから独自独歩になるわけです。

だから過去の経験体験・実体験を積み重ねていることを表に出して、現在の学びと照らし合わせてから新たに気付くことになります。

だから精神世界を意識している限り、今日までにあった過去の諸々がすべて生かされて無駄にはなりません。

その過去の諸々は、その途中で何があったにしても、自らの思い考えで選択した結果ですから、然るにそれに関わった学校の先生や学者や開祖教祖や先輩諸氏のせいではなくて、己の選択した自己結果・自己責任になります。

だから自分が先生でもあり生徒の関係になります。
だから途中で何があろうとも(他力が関わろうとも)その結果は自分で受止めるしかありません。

すなわち己が独りの独自独歩の仕組みの中で自分の為に生きているのがこの世です。

だからこの世国家社会や人間関係がどうであれ、自分が何を選択して生きていくかしか他に道はありません。
然るに時代の流れで生きるも、それとは違う選択をするのも、自分の為に選択したことですから、その結果に素直に従うしかありません。

その選択した意識と結果は同じですから、欲張れば欲張った結果が出るし、その欲張ったことで失敗して後悔反省するのも、更に欲張り続けるのも、すべて自分の意識が選択した結果になり、その結果が経験体験・実体験になります。

ちなみに私の過去は他力依存の自己拡大で諸々を味わってきましたが、今は食って寝て糞をしながらにしてその自力で生きる自己縮小で諸々を味わっています。
然るにその事を根堀り葉堀り書いてきました。

ただ肝心なのは未練後悔・執着が残っているのか、それとも己が納得した生き方になっているか、それが大きな違いなのは事実です。

そして事実にして納得人生で終わる人と、未練執着をもって終わる人の違いが、死に際・死に様に現れますし、あの世の結果でも違いが出るようです。

然るに4次元の幽界で止まるのと、5次元以上の意識の世界に昇れるのと、その違いがあると言われているのが昨今の精神世界ですが、しかし不確かなことですから確証はありません。

実体験の実感から自問自答して答えが出た内容ですから、このブログは私だけの精神世界になります。

2015年09月18日 | Weblog
国家社会のことや人様のことならほっとくのに自分のことや身近な人になるとほっとけないで要らぬ口出し手出し足出しするのも矛盾意識の人間だからです。
そして面倒だからとほっとくのに自分の好きなことなら頑張り無理する矛盾があるし、人が困っているのを見ても自分の都合しだいでその対応がころころと変わるから、
然るにほっとくこともあるが、ほっとけないときもあるのに、それが自分が困っているときにほっとかれると、そのほっとくことが如何にも悪いように自己主張したがります。
だから古今東西の宗教・聖書経典の中にもあると思います。

だからいつの間にやら「ほっとく」ことが罪悪のよう思うことにもなります。
そしてその罪悪感からしての善行・奉仕・寄付=ボランテアなどの「ほっとけない」事柄に関わることで偽善の滅ぼしをしているのかもしれません。
またそれを褒め称えるのが世間ですから、自己満足したり自惚れ慢心にもなっています。

その「ほっとく」ことが薄情にも思えますが、野生のライオンが我が子を突き放すのも「子を思っての親心」となり、それが結果的に自力と自信の精神力・自立心を身につけることになって一人前の大人になれます。

ちなみに巷では出産子育て教育指導なる参考文献があれこれ出ていることで効果効用もあれば弊害副作用があることに気付いていない人が大勢います。
然るに前回の投稿文にある「不登校」もそれら参考文献に従ったからと「その結果を求めたがる」親の意識に原因があると思います。

然るに良かれと思って流す巷の情報にも見えない弊害副作用があります。
またその情報過多で思い悩み考え思考錯誤し葛藤することにもなります。

そして今の私ではダメだ何とかして変わらなければと思ったり、自分ではどうも無理だと思ったり、そんな事になるのならイヤだと思ったり、
また有名ではないから、国産ではないから、
また将来性がどうの、重労働に思えたり、危険に思ったり、惨めに思えたり、退屈に思えたり、汚く思えたり、害があるのでは、騙されるのでは、
また見栄や世間体やプライドが邪魔したり、
身近なところに見本・参考となる形も少なく

だから実際に何もやってもいないのにそれら情報や先入観からして選ぼうとするから、何も見つからずにただ思うだけになったり、
今は用もない様々な資格免許許可を取ってみたり
また何するでもなく暇な時間をパソコン・携帯やゲームを相手にして過ごすことが多くなるのです。

ところで私はこの世人間界に興味が無くなったからニュースや話題などの情報は重要ではありません。
また完全真理と自己縮小からして学び知ったことで十分ですから、巷の不完全な精神世界関連やそのブログも関心がありません。
だから時たま見聞する文書の一説や世間話で出てくることだけで十分です。

然るに此れまでの自分が原因の今の自分で十分なのです。
だから様々な他ごとには興味が失せていますから、尚更に世間や人間関係も気にしないで、自分の事だけに集中していられます。
然るにそれがこのブログでもあります。

だから学識知識教養を超えた実体験の実感からして自問自答し答えが出た内容ですから、このブログは私だけの精神世界になるのです。

と言うことは私同様に似た実体験をした人でなければ知識の記憶だけで止まり納得確信には至らないかもしれません。
しかしそれでもこの先に実体験することにもなりますから、まんざら無駄ではありません。

だから事実にしてこのブログが役立った人も少なからずいるはずです。
またこの先で役立つ結果になる人もいるはずです。

そのことに我ながら自信があります。
何たって書いている私がその生き様の張本人・見本だからです。
だからいつ何時・突然に来られても、そのまま・ありのままに開け広げていますから、それらを確りと見聞してください。

現在もこの先も「何とかならないものか」と気に病むことが目白押しです。

2015年09月17日 | Weblog
私の身近な人の家庭の中で長男が小学生の頃から不登校気味になり、そのまま中学高校と続き、何とか大学に入学したものの早くも退学して自宅で引き篭り気味になっている最中に、今度は中学生の子供が不登校気味になっています。

然るにその子の両親も何とかしなければと一生懸命になっていますが、親の心子知らずでなくて、子供も少しでも親の思いに添うように努力をしているようだが、その子ら本人さえもどうしようもないくらいだから、然るに親の思い通りにはうまく行くはずもありません。

すなわち子供も自分から何とかしなければと思っているのにどうしても自らの自力で解決できないし、その親も子供以上に何とかしなければと必死になるもうまい具合にはいきません。
そして身近な叔母さんもそんな子供らを見ると何とかならないものかと日々気に病んでいるようです。
またそれを時たまに目にする私がそこで何とかできるものなら何とかしたいのだが、しかし何をやっても無駄になることを知っているだけに、子供らのご機嫌伺いしか出来ません。
そしてそんな現実事実を見た私の心精神の中に乱れがおきていることにも気付きますが、しかし私は叔母さんのように執着しないだけに一時で終わりますから、何かと人様のことに巻き込まれないですんでいます。

然るに親子と言えども子供の思い心意識=精神さえも=どうしようもないのが事実なのです。
そして子供らも親の心意識・精神を何とかしたがっても、どうすることもできないのが現実です。

なににしても親子共々頑張り努力無理しても結果的には無駄になっているのですが、ところが少しでも改善の兆しがあったりすれば喜びにもなりますから、(結果を求めすぎる親の性格からして)そこでまた頑張り努力無理することになるのですが、しかし何度繰り返しても根本的には解決改善していません。

また何とかしたがっている中に神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものの他力に頼って何らかの結果が出たとしても仮の一時で終わりますから元の木阿弥に戻ります。

だったら元からして本人の自立心・自力自信の精神力に任せてそのままにほっとけばいい、そして成り行きに任せて静かに見守っているだけでいい、と言うのが私の見解・真理です。
そのほうが親にも子供にも負担が軽くなるし、子供のほうも親を気にしないで自分のことだけに集中していれるから、それだけ自由になって身動きしやすくなると確信しています。

それらを言い換えると「何とか」しなくてもいいから、そのままの成り行きに任せておけば成るようになって、その本人の自力と自信の精神力意識力の原因に似合った結果が出るだけですから、成ることはなるが、成らないことはならないだけで、その経験(自己結果と自己責任)のままに終わります。

すなわち頑張り欲張り見栄張らずに(何とかしないで)「楽に」していれば、それだけ面倒臭いことや余計なことを無理する事無く心穏やかにして生きていけるのです。
そして人間本来の心身の余裕が味わえるから、様々な気付きが起きて、自問自答することにもなり、それが自力と自信にもつながるのです。

ちなみに恋愛や夫婦関係であっても、何とかしたいと思い願い期待からして己の思いを伝えても、その相手の思いも一緒に絡んできますからなかなかうまい具合に事は運びません。
然るにこの体験経験は誰もが数多く味わっていることでしょう。

もっとハッキリ言えば不登校の事例と同じく自他共に思い通りにならないのがこの世人間関係なのです。
それを学び知り悟った私に言わせれば、その自他共に「どうしようもない」ことに気付き悟るためにこの世に生まれてきたのも同然なのです。

そこでどうすることも出来ない人間関係をほっといて、元からして「自分の為に」生きていけばいいのです。
然るにそれが持って生まれた個人意識ですから、そのままの個人意識丸出してもって(どうしようもない人のことを気にしないで)平然と生きているほうが心身ともに軽やかになって疲れないで済むのです。

また何とかしようと他力絡みで試みたことが仮にうまい具合になったとしても、しかし矛盾のこの世人間関係ですから、それが先行きでは不具合なことにも変わるのが事実にしてあるのです。

だから自他共に何とかしようとさえ思わなければ(ほっとけば)苛立ったり腹立てたり後悔したり未練が残ったりしないで済むのです。
また困っていることを何とかしてあげた、私は良いことをした、私は正しいことをした、というような偽善の積み重ねにもなりません。

とにかく現在もこの先も「何とかならないものか」と気に病むことが目白押しですから、そんな「どうしようもない」ことに関わらずにして、自分の為の生き様・心精神に自問自答して気付きながら、己に似合った独自独歩で日々を生きていくしかありません。

=人間は元からして独自独歩です=だから私は独自独歩で「地上の天国」自然界を味わっています。

2015年09月16日 | Weblog
精神世界を自分のものにするためには独自独歩が望ましいと書いていますが、その人間関係を無理してまで離れる必要はありません。

だから一般的に言っても、共に好き合っていて互いが必要となっていれば楽しいし嬉しいからわざわざ離れる必要はありません。
しかし熱烈な恋愛で結婚してもいつしか離婚することもあるように、その熱が冷めれば離れ離れになって元の独自独歩に戻ります。

だから精神世界を仲間意識となって共に歩んでいればわざわざその関係から離れる必要もありません。

しかし此れまでの霊魂の世界でも完全真理でも数々あったことですが、
私がお誘いした人が最初の内は=凄い凄いと=行動を共にしていても、その相手の熱が何らかの不都合で冷めだすと次第に敬遠されはじめ、結果的には私一人で行動するようになりました。

また私より先輩格の人が熱心に私を誘導・引っ張っていたのに、数ヵ月後には姿を見せなくなる事例も数々ありました。

またそんな先輩格の中にはお会いした頃から熱心なままが続いていて私も羨むほどでしたが、何度か会話している内に妄信しているだけで中味が空っぽの人も数人いました。

だから私が霊能者と縁が切れたときも耕栄さんから卒業したときも、妄信している人は居残り続けることになると思うが、その理由の中に先輩格として居続けることができるその自己満足・自惚れ慢心や見栄もあると思っています。
だから妄信に気づかず、また抜け出さないままに居続けるのだと思います。

何はともあれ人が集まる諸々の神仏霊魂・精神世界・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成す者もその受け手も共に<欲絡みだけに>それらから早く卒業して自らの意識に問いかける自問自答と自力自信の精神力の独自独歩でもって自らが気付いていくしか他に道はありません。

そこで楽に生きていく自己縮小の生き方を選択したときに身近な恋愛相手や夫や妻が行動を共にしてくれるのならばわざわざ離れ離れになることもありません。

しかし大方が否定反発されるでしょう。
となると自分の為の道を選ぶのか、それとも恋人や夫婦関係を守るのか、その選択になります。

だから己の道は己の選択によって決まるのです。

然るに恋人や夫や妻の性ではなくして自らの責任なのです。

だから気付いていないかも知れませんが、結果的には<元からして独自独歩>になっているのです。

だから自分が後悔しない、言訳正当化して誤魔化さない、善人ぶって偽善にならない、自分の為の=自分の道を選べば、その結果がどうであれ後悔未練の無い納得人生になるのです。

然るに今の私は自己縮小の省エネ楽ちんにして自然界が相手の地上の天国を味わうことで十分納得しています。

面倒で余計な事を成すその自己満足は我が身・心身を傷つけ疲れさせます。

2015年09月15日 | Weblog
この世で自己満足を欲しがるのは人間だけです。
だからライオンも像も牛や馬も鯨もサメも狸やイタチもアリもキリギリスも本能のままに生きているだけで自己満足を欲しがってはいません。

ところが人間となれば余計なことや面倒なことをして疲れるのに自己満足したいが為に何かと事を成したがるのです。

だから私も自己縮小といいながらも要も無い自家菜園したりヤギや鶏を飼育して自己満足したり、また頼まれたわけでもないのに荒れ果てた田んぼや山林やまた参拝する人が殆どいない神社や殆ど人が通らないような山道の草刈に励んで自己満足・自慢げにしていた時期もありました。

そこで自己満足することをやめることで更に楽ちん生活になりました。
そして気付いたのが余計なことや無駄なことをしなくなったことで日々心意識が穏やかになっていることでした。

だから私が手入れしていた幾多の箇所も今は元の荒れ果てたままに戻っています。
そして(見るに見かねて)(要所要所を)気が向くまま時々草刈しているだけです。

ちなみに皆さんも面倒なことや余計なことや無駄なことをすれば疲れることを知っていますから、それら面倒なことに関わらずにして楽にしていたいはずです。

なのに現実はどうでしょうか、楽どころか苦労の連続ではありませんか、
しかも自らがその苦労を買って出て背負い込んでいるでしょうに、
何でそこまで頑張り無理をするのでしょうか、

然るに自己満足したいからです。
そして見栄や世間体・プライドを守るためでもあります。

然るに我が身・心身を傷つけてまでやる価値があるのでしょうか、
単なる自己満足や自惚れ慢心で終わっているでしょうに、

またそれが思い通りに行かなくて苛立ち腹立ちしたことでしょうに、
また頑張り努力したのにその思いを裏切られる結果になったことも幾多もあったことでしょうに、

だったら私のように自己満足することをやめにしたらどうですか、
いっぺんに楽ちんになりますよ。
しかも自由になれます。

その己の自由のためにも他を否定反発したり束縛制限していません。

それに反して他を否定反発・束縛制限すれば(裏表の関係からして)それが我が身に振り返ってくるのがこの世の仕組みですから、結局は我が身の自由が失せます。

然るに他を管理監督・教育指導することになれば、当然ながら己もその立場にいなければなりませんから、然るに己が思うがままの自由にしてはいられません。
しかも思うがままに行かないで苛立ち腹立ちすることもあります。

だから私は自他共に成り行き任せて自由に「ほっとき」ます。
然るに妻や我が子や孫たちにも同じ立場でいます。

だから私も自由勝手気ままに過ごすことが可能なのです。
然るにお互い様の関係になるのです。

然るに自分の為に自由になりたければ他の人も自由にしなければ結局は自分が自由になれないのがこの世の仕組みです。

だから自分が個人意識丸出しでもって生きているならば、他の人も個人意識丸出しでもって生きていることを認める結果になりますから、然るに公平になります。

だから争うことにはなりません。

しかも面倒なことも余計なこともしなければそれだけ疲れずに済みます。

だから穏やかな心持で日々を生きていけるのです。

今を生きていくために、何で面倒なことや余計なことをしたがるの!?

2015年09月14日 | Weblog
私は生きていくために食って寝て糞をしています。

だから自分の為に生きています。

また食う寝る糞をするために様々な雑多をしなければなりません。

しかしそれも自分が生きて行くためにしていることですから、すべては自分の為にしていることです。

だから個人意識丸出しでもって生きているのです。

しかし生きているだけでは面白くない、それではダメだ、何とかしなければ、となって趣味嗜好娯楽の類や神仏霊魂の信仰宗教や精神世界の類に関わることになれば、それだけ面倒なことや余計なことをすることになりますから心身が疲れます。

とにかく面倒なことや余計なことをして自己満足するのも、その特別意識(私は人とは違う・私は正しい)からして自惚れ慢心・思い込み・錯覚・言い訳自己正当化ですから、事実は疲労ストレスを溜め込むことになっているのです。

とにかく面倒なことや余計なことをしてそれが楽だという人は誰もいません。

だから精一杯頑張り励んで蓄財・財テクしてから後に悠々自適の生活をするという夢や希望が消え失せることになるかもしれない、虚しさわびしさの孤独感やウツや認知症や寝たきりが待っていたりするのです。

なのにそれら諸々の余計なことや面倒なことをして心身が疲れているのに、それら諸々によって心が落ち着き楽になったと思い込むことになれば矛盾しています。

しかもその為に多くの諸経費と時間を使っているし、またその自己満足やその感謝の代償に金品を差し出していれば余計な散財をしたことになります。
この事例に思い当たる人は多いはずです。

しかも過去に二度三度と経験して後悔反省しているのに、まだ懲りずに同じ事を繰り返している人もいることでしょう。

だから食って寝て糞をするだけで生きていればそれだけ楽なのは事実です。

だから尚更に面倒なことや余計なことをしなくなるのも事実です。

またそれが自分の心身の為に悪いことではなくして、自分の心身の保全健全の為になっているのも事実です。

だから見栄や世間体を気にしないで(プライドを捨てて)ぐーたら生活を味わえば俗に言う「一度ルンペンやるとやめられなくなる」が如くになります。

然るに頑張り欲張り見栄張りして余計なことに無理している人たちを見てもっと楽に生きればいいのにと哀れ気の毒にも思えているのです。

だからブログを書き続けているのです。