年金・単身・静寂な過疎地暮らしを15年以上続けていると自然界の中で何もしないでいる時間・暇で退屈な時間の消化・食って寝て糞をして生きているだけのような生活観になりました。
そして最近では何かあることが特別で余計なことになり何だか落ち着きが無くなり心が騒がしい感じになりますから、出来れば「仙人」のような感じの孤独と静寂の中でゆったりと暮らしているほうがいいように思い始めました。
と言うのも久方ぶりに来訪者があれば、しばらく賑やかにしている時間が続きますから、それが変化刺激になってはいいのですが、その来客が帰ったら元の静寂に戻りしばらくは私だけが取り残されたイヤーな感じになります。
だったら最初から静寂なままが続いて一日が終わったほうが余計で面倒な変化刺激に惑わされて心を乱したり祭りのあとのようなイヤーな雰囲気を感じづに一日が終われるのです。
ちなみに草木の命意識は「即身成仏」したのと同然だと言われていますが、その草木のように何事にも動じる事無く成り行き任せに生きることの意味・価値・理解が深まりました。
然るに「雑草」が如くの自力自信の精神力でもってこの世を平然と生きていくことの重要性・価値を見出したような感覚になりました。
しかし人間だけに生きていればどっかこっかでイヤーな気分にもなるのです。
特に人間関係となれば尚更に多くなりますが、それは私がまだ精神的に未熟だからです。
だからその未熟さでイヤーな気分を味わうくらいならば人里はなれた自然界の中で孤独に暮らしているほうがなんとか心休まるのです。
然るに理屈に合った、私に似合った生き方をしているだけですから自慢できるほどのことではありません。
ところがそれ以前の過去にも「どうしようもない」ほど=嫌気がさすほどの=理屈に合わない矛盾を味わってきただけに、
やはり孤独にして生きるしか他に道は無い=「此れしかない」とばかりに精神世界がらみのブログにして書いているのです。
ところが先ほどの雑草ならば周りにいつも同じ仲間がいますから、孤独のようであっても孤独ではなくなります。
しかし私の場合は必然のご縁で人が来ない限り先ほどに書いたように孤独なままが続きますが、ところが必然ご縁で人が来ればそれはそれで面倒で余計なことにもなる矛盾があるのです。
だからせめても摩訶不思議の世界&完全真理&自己縮小の諸々を否定反発する事無く微笑みながら語り合える仲間が周りに増えることを期待しているのです。
だからその為のブログでもあるのです。
そして最近では何かあることが特別で余計なことになり何だか落ち着きが無くなり心が騒がしい感じになりますから、出来れば「仙人」のような感じの孤独と静寂の中でゆったりと暮らしているほうがいいように思い始めました。
と言うのも久方ぶりに来訪者があれば、しばらく賑やかにしている時間が続きますから、それが変化刺激になってはいいのですが、その来客が帰ったら元の静寂に戻りしばらくは私だけが取り残されたイヤーな感じになります。
だったら最初から静寂なままが続いて一日が終わったほうが余計で面倒な変化刺激に惑わされて心を乱したり祭りのあとのようなイヤーな雰囲気を感じづに一日が終われるのです。
ちなみに草木の命意識は「即身成仏」したのと同然だと言われていますが、その草木のように何事にも動じる事無く成り行き任せに生きることの意味・価値・理解が深まりました。
然るに「雑草」が如くの自力自信の精神力でもってこの世を平然と生きていくことの重要性・価値を見出したような感覚になりました。
しかし人間だけに生きていればどっかこっかでイヤーな気分にもなるのです。
特に人間関係となれば尚更に多くなりますが、それは私がまだ精神的に未熟だからです。
だからその未熟さでイヤーな気分を味わうくらいならば人里はなれた自然界の中で孤独に暮らしているほうがなんとか心休まるのです。
然るに理屈に合った、私に似合った生き方をしているだけですから自慢できるほどのことではありません。
ところがそれ以前の過去にも「どうしようもない」ほど=嫌気がさすほどの=理屈に合わない矛盾を味わってきただけに、
やはり孤独にして生きるしか他に道は無い=「此れしかない」とばかりに精神世界がらみのブログにして書いているのです。
ところが先ほどの雑草ならば周りにいつも同じ仲間がいますから、孤独のようであっても孤独ではなくなります。
しかし私の場合は必然のご縁で人が来ない限り先ほどに書いたように孤独なままが続きますが、ところが必然ご縁で人が来ればそれはそれで面倒で余計なことにもなる矛盾があるのです。
だからせめても摩訶不思議の世界&完全真理&自己縮小の諸々を否定反発する事無く微笑みながら語り合える仲間が周りに増えることを期待しているのです。
だからその為のブログでもあるのです。