孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

誰もが皆「自己縮小」となる、その仕組みがあります。

2015年03月08日 | Weblog
このブログは欲絡みの俗世間でその苦楽の矛盾で生きることから離れて真の精神世界で生きる実践を書いています。

そこで完全なる宇宙&神の愛意識を知ることが出来る完全真理とその自己縮小の実践、然るに欲張らないで素朴に生きることを書いています。

ちなみに私の生き様・過疎地暮らしを正当化したり自慢するために書いていることではありません。

また欲張らない実践を根堀り葉堀り書いているのも、
古今東西の老若男女の誰でもが実践できる公平さ、然るに完全なる宇宙・神・愛の仕組みからしてのその公平さがあり、またやる気になれば誰でもが無理なく簡単にして実践できることを素直に納得確信していただくためです。

然るに私の場合は宇宙の仕組み&必然ご縁の仕組みの数々からしていつの間にやら自己縮小の形になっていたのですが、
ところが俗世間に慣れ親しんでいる人であれば、いかに納得確信に至ってもその実践となると一般的に見れば世間離れ人間離れが如くにもなることからして躊躇することになるのも無理ありません。

そこで先ずは何事にも「執着」しないことを書いているのです。
だから前もって理想目的とせずにして「成り行き任せ」にすることや「ほっとける」ことや「来る者は拒まず去るものは追わず」の自然体を書いているのです。

ところが執着しない実践さえも無理となれば「どうしようもない」となるのですが、ところがそれでも実践するチャンスが必ず仕組まれます。
然るにそれが(避けて通れない)「有事」であったり「天変地異」だったりするわけです。

だから真坂の有事や天変地異に遭遇しても「動揺」しない精神力・自信自力を高めることを書いているのです。

然るに真坂の有事や自然災害に遭遇したときの備えを前もって整えることよりも、先ずは快適便利な生活の元となるその金銭や物質機器に頼らないでも生活できるその精神力・自信自力を身に付けていく努力をすることです。

また自然災害で避難所暮らしになったときに生きていることで十分に思い、無いものを欲しがったり不便さに不満を持ったりせずに(欲張る事無く)自力を多く使いながら創意工夫し、素朴謙虚にして平然と暮らせるだけの心意識になれればいいのです。

また故郷を離れて暮らすことになっても憂うことなく、また孤立感&孤独感になることなく、その孤独と自由からして(世間的な柵シガラミから開放されたのだから)見栄や世間体や伝統風習道徳や趣味嗜好娯楽などの(過去の)柵シガラミから離れた新たな生き様が可能になるのです。

そして困ったときの神頼み他力依存を捨てるためにも信仰宗教や神仏霊魂や超能力・霊力・念力・手かざし等の他力に依存しないで生きる精神力・自信を身に付けること、また身近な家族・人間関係に頼らないで(己のことは己が担う)自力を多く使う努力をしていくことです。

また年老いるごとに孤独になりますが、矛盾のあるこの世は逆も真なりで、何事にも憂う事無く、それも人間関係や世間的な柵シガラミから離れられるチャンスでもあるのです。

然るに年老いても心身ともに元気が一番なのです。

そのためにも心身のストレスから開放された生き様、然るに苦楽の矛盾から開放された素朴に生きる実践をしていなければなりません。

然るにそれら精神力が結果的に欲張らない自己縮小につながっていくのです。

信仰宗教&神仏霊魂&超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・セラピーは真の精神世界ではありません。

2015年03月06日 | Weblog
不完全で矛盾のあるこの世人間関係の中で同じ不完全意識の者が何を成せどもその結果も不完全で然るに良いこともあれば悪いこともあるその事実を根堀り葉堀り書いてきました。

また何かを成すことで自己満足することになりますが、それが不調に終われば自分を責めたり人を責めることにもなりそれが不平不満になります。
然るに諸々の不平不満からして代替に自己満足を欲しがることになるとして書いてきました。

然るにその苦楽の<矛盾>に気付くことがなければ精神世界に関わっていること自体に意味が無くなります。

ちなみに自力自信にも矛盾がありますから、それが劣等感と優越感になります。
その自力自信が弱ければ(人それぞれにその尺度・質と量に違いがありますが)劣等感となり自分を責めることにもなりますし、その自力自信が強すぎると優越感の自惚れ慢心・傲慢になりますが、そのいずれにしろ己の墓穴を掘ることにもなります。

然るに(過去の私の場合)学識知識教養の低いその劣等感(不平不満)の裏返し反動からしてそれを埋める優越感(自己満足)を求めましたから、それだけ熱中集中することにもなり、また先駆け先見洞察力や直感判断力・決断力や人真似・物真似に一味加えるその創意工夫が身に付きましたから、その分だけ「知りたがる」「やりたがる」ことにもなりました。
だから(仕組まれ続けて今の私があるのですが)ことの始まりは劣等感の裏返しからして始まったのは間違いありません。

また劣等感からして自己破壊に至るケースもありますが、その裏の優越感&自惚れ慢心からして冒険危険に立ち向かい結果的に自己破壊に至る場合もあります。
然るに世界的に有名な登山家・探検家で国民栄誉賞を受賞した植村直己の事例があてはまります。

だから劣等感であれ優越感であれ、それが過剰になると(墓穴を掘る)自己破壊についながるわけです。
しかも自惚れ慢心の自力自信からして私が正しいとなり、その潔癖・完璧・正義感からして(悪を排除したがる)他者破壊にもつながることを書いてきました。

その他にも信仰心や先祖供養や親孝行や愛情や信頼や絆にも矛盾があることを書いてきました。

また食欲性欲や趣味嗜好娯楽やの自己満足の副産物が現在の生活・家族でもあると書いてきました。

然るに自己満足と不平不満の苦楽で生き続けている限り如何なる精神世界に関わっていても意味を成さないと書いてきました。

だからこの世人間関係の<矛盾>を知らずにして何を知るというのでしょうか? 他に何かありますか?

たとえそれが信仰宗教であれば信じるか否かの矛盾と飴と鞭の使い分けや嘘も方便があり、また神仏霊魂であれば不確かなことを事実が如くに語るところがあり、また超能力や霊力・霊感・念力・手かざし・ヒーリング・セラピーとなると施す者の自己満足となり、またそれらを施される者の自己満足とその他力依存にもなるし、
たとえそれら類から何らかの結果が出ることがあっても一時的なもので終わりますから、然るに何か事がある度にそれら結果に頼ることになる弱い心からしてそのリピート客にもなる事実があります。

然るに矛盾からして根本的に何ら解決しませんから、それら類を真の精神世界とは言えません。

また己の意識が原因からしてその結果が出ることからして言えば、然るに「結果じゃないよ心意識だよ」を自覚納得確信せずにして他に何を知りたいのですか?

そこで自己縮小となる欲張らない生き方をするしか他に道は無いとして私の実感納得確信からして書いてきました。

だからその為にも「矛盾&苦楽」で生きていることを自問自答して気付くことが真の精神世界の道でもあるのです。 

諸悪の根源は不平不満にあります、だから欲張らない実践が絶対的に必要なのです。

2015年03月03日 | Weblog
然るに不平不満や不安心配で苛立つことも虚しくなることも、また怒りからして喧嘩になって暴力沙汰になるのも、また弱い者いじめからしてセクハラ虐待になったり、互いが奪い合う略奪侵略になるのも、然るに人殺しや戦争になるのも、またそれが報復仕返しの連鎖になるのも、然るに地下組織の殺人テロや自爆テロ行為にもなっています。

だから戒律・規律・制約・条件・条例・法律・国際法が制定されたり、
一致団結や愛社精神や愛国心が言われたり、
自由平等平和・世界人類の平和が言われたり、

また優しさ思いやり感謝や愛情や信頼や絆が説かれたり、
善行奉仕援助救済の金集め人集めが行われたり、
然るに信仰宗教・神仏霊魂が説かれたり、その布教活動があったり、

また超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる者が自己満足・自惚れ慢心からして世間で目立つことにもなるし、
然るにそれら輩を崇拝・信頼・祈願・期待・依存したがる者たちが集まることにもなっているし、

ところがそれらを施す者にも、また施しを受ける者も、誰彼問わず皆が不平不満を持っています。

然るに不平不満を持った者同士が接し触れあい寄り集まるも、その解決を図る事無くして、互いの欲絡みで集まっているのだから「どうしようもない」のです。

その「どうしようもない」ことに誰も気付かないから、なお更に「どうしようもない」わけです。

だから精神世界に関わる何処のブログを見てもわかるように肝心要の根幹となる不平不満&欲張ることの弊害を詳細に示した事柄事例がありません。

何たって己自身が欲張ることに一生懸命だからです。

然るに己の能力からして成すことの手前味噌を引き立て目立つように宣伝広告しているようなものばかりです。

然るに己の欲を追求しているだけであって人様の為ではないのです。

然るに人を惑わして自己満足しているのです。

そんな邪で不確かで矛盾のある精神世界ならば元からして無いほうがその被害弊害を受けずにすんだことでしょう。

とは言っても、それもこの世の必然からして形作られたものですから、それらを必然とする者には一時のありがたいことにもなるのです。

だから大昔から惑わされ続けることにもなったのです。

それだからこそ不平不満と自己満足の真実を知ることが無ければ、惑わされ続け、迷い思い考え試行錯誤したり葛藤するだけで、絶対に納得できません。

そして欲張り続けることを生き甲斐&自己満足にして、どうでもいい余計なことに無理し無駄な人生&苦楽の矛盾人生で終わることでしょう。

だから不平不満の原因となる欲・欲張ることが無くなるように自己縮小して素朴に生きることを書き続けているのです。

愛からして「ほっとける」が、愛情からして「火中の栗を拾う」ことになります。

2015年03月01日 | Weblog
このブログは精神世界の根幹となる自己満足と不平不満の関係を知ることができます。

ちなみに人間として生きていることに巷では何かと名目をつけていますが、その真実は自己満足と不平不満の矛盾&繰り返しで生きているだけなのです。

※何でそのことに多くの人が気付かないのでしょうか!

然るに不平不満が無ければ宇宙人も神様仏様&釈迦やイエスや超能力者の類が出る幕もその隙間もありません。

然るに不平不満が無くなればすべてが解決するのです。
そして後のことは宇宙&神&愛の仕組みに任せとけばいいのです。

然るにこのブログでは「食って寝て糞を」しながらにして平然と生きることを書いていますが、然るに欲を出して特別なことや余計なことに無理し頑張ることもなく(当たり前が如くに)素朴に生きることですが、
しかし生きていくことをおろそかにしたり怠けることではありません。

だから必然のご縁からして人から頼まれたときに、それが自分に当たり前に出来ることでまた暇な時であれば快く応じることになります。

ちなみに私の牛舎のパートの場合も、私からして捜し求めたことではなくて必然ご縁の仕組みが(人から人につながり)(短期間)次々と続いた結果からして今のご縁につながり、そしてオーナーが私を必然としていることからしてして(一日のうちの二時間程度ですが)(私も暇で退屈していますから)(6~7年間)現在まで続いているだけのことです。

然るに素朴に生きることからして変化刺激が少ないわけですが、
その変化刺激を求めれば(精神世界の根幹である)その自己満足と不平不満の裏表&苦楽を味わうことになるのです。

だからその変化刺激の自己満足を捜し求めなければその不平不満にもならないのは当然のことなのです。

ところが何かと気に入らないと(そのままにしてほっとけないから)それが不平不満に思うことになり、それが解決できなければ(満足できないから)その虚しさが覆い重ねられ、然るに不平不満が多いほどに生きている意味価値が希薄になります。

ところがそれでは生きていても面白さに欠けますから、その代替に趣味嗜好娯楽などの変化刺激や快感快楽の自己満足を求め欲しがるのです。

ところがその自己満足が叶えられなければそれが更に大きな不平不満になるし、また自己満足の質量に物足りなければそれも不平不満になります。

となると生きている中で自己満足よりも不平不満に思うことが多くなるわけです。
だから納得出来ないままに虚しく人生を終わるわけです。

ちなみに私の人生を省みれば、自分の学識知識能力や教養不足に劣ることを気にしないままにして、自分に出来る得意なことばかり(誰にはばかる事無く)やっていたことからして、
然るに自分を責めることにもならないから自分に不平不満にもならないし、かと言って理想目的を持って目指すほどの能力も無いと自覚していたから、

然るに先々のことは成り行き任せにして、今の自分に出来る得意なことばかりしていたから(その自己満足があっても)然るに自分が困ったり悩んだりのその苦悩(不平不満)が殆ど無くて、
然るに今も自分に出来る得意なことばかりして自信あるげに生きています。

然るに皆さんはどうでしょう、
今の(先祖供養を含めて)両親や夫や妻や子供らに愛情を込めていますね。
だからそれら人が困っていたり精神的に悩んでいたりすればその手助けを惜しみませんね。

然るにそれが「火中の栗を拾う」如くにもなるのです。
すなわち(何とかしたい愛情でもって)(確たる自信が無いのに)闇雲に進むことになりますが、しかしそれは(己にその自信が無ければ)自惚れ慢心からやっていることになります。
しかしそのことにはまったく気付きませんね。

然るにそれが自力能力を超えたことと認知できても(ワラにもすがる思いからして)その道の専門家や有識者先生を訪ね歩いたり、また信仰宗教や神仏霊魂や神懸り能力者などの他力に頼りたがりますね。

しかし不完全意識が原因のその結果も同じ不完全で矛盾のある中途半端な結果で終わることになります。
然るに余計なことを無理し頑張り無駄なことをしたことになります。

然るにそれが私の立場としたなら、自分の能力不足を知っていますから、然るにどうしようもないことは(気にはなるけれども)静かにしてほっときます。

そうなるとその物事に捉われ執着しませんから、然るに人のために私が巻き込まれないままにして平常心で過ごせます。

然るにどうしようもないことに首を突っ込まないで(巻き込まれないで)(自らの墓穴を掘らないで)済むのです。

しかし必然ご縁からして私を頼られることがあれば、「生きてさえいればそれで十分だから」「成るようになるだけだから」と語り、
然るに自他共にどうすることも出来ないことに執着しないで、然るに人間の意識が原因のその結果が出るだけだから、その成り行きに任せるしかないとアドバイスするくらいでしょう。

ちなみに己に自信がないことはやらずにして、己に自信があることだけをやっていれば不平不満にならずにして、その自力自信でもって生きていけるのです。

またその不平不満が無ければ代替の自己満足を捜し求めることにもならないのです。

然るに食って寝て糞をして生きているだけでも十分になるのです。
然るに欲が出ても欲張らずにして平然と生きていけるのです。

とは言っても人間誰しも弱点がありますから、その弱点をつかれた仕組みが起きれば、私とて他力にすがる思いになります。

だから己の自力自信におごる事が無いように、自惚れ慢心にならないように心がけていますから、然るに目立つ事無く静かにして、素直真面目謙虚にしていられるのだと思います。