孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

愛のある「生き方」と「死に方」

2015年03月10日 | Weblog
私の過去に、必然ご縁の仕組まれにして「愛のある霊能者」とご縁が続き、そこで「否定反発排除」のない愛を学び知り、次なる仕組みで完全真理の説く宇宙&神&愛の意識となる「あるがまま」を学び知りました。

それを簡単に言えば成り行き任せの自然体の当たり前が「愛」であり、何かと拘り執着することになるその特別な思いは愛情だったり憎悪だったりするのです。

ちなみに己が意識している人(特別な思いを寄せている人)に対して己の心の優しさのその思い(思いやり)を込めて表現行動することは(愛ではなくして)愛情になるわけです。

然るに執着心になると心にゆとりが無くなり、その分だけ心に隙間が空きます。
然るに「間が空く」=「まがあく」→「あくま」=「悪魔」となり、その心の隙間に悪が入り込み、そこで悪さが仕組まれるのです。

ちなみに何ら特別な思いが無くて、ただ食って寝て糞をしながらにして生きることが当たり前の如くになれば、それが愛のある生き方になるのです。

ところが特別を欲し求めることでその苦楽が伴い、それに執着するほどそれだけ心身が疲れストレスになります。
そのストレス&心の隙間に悪が入り込み(油断することになり)それが原因から事故や怪我にもなるし(病は気からして)病気にもなります。

その怪我や病気からして死ぬことに不安心配恐れを持つことになります。
そこで我が身を守ることになり、その怪我や病気と闘うことにもなります。
然るに怪我や病気を否定反発排除したがることになりますから、それでは「愛のある生き方」とはなりません。

しかも悪い箇所を手術で切除排除することや人様の血液を輸血したり臓器を移植することにでもなれば、俗に言う神を恐れぬ、その思い上がり傲慢ですから、然るに宇宙&神&愛を否定反発排除する裏切りになります。

然るに(己が死にたくないために)人類創造の宇宙&神の愛を裏切って否定反発し排除する(切り捨てる)ことになりますから、然るに生き延びることが出来ても(愛を知らない人間失格となり)死んだも同然の心持で生き延びることになるでしょう。

だから私は食って寝て糞をするだけのような、然るに苦楽の無い生き方、然るに楽チンにして省エネとなる生き方、然るに心身にストレスを及ぼさない生き方にして、心身ともに健全な生き方となる、その欲張らずに素朴に生きる「愛のある生き方」の実践を心がけているのです。

また過疎地でもって孤独死することを望んでいますから、然るに死を見届けてくれる家族さえも居ないままに無縁死となるその覚悟があります。

然るに健康診断は20年以上受けずにいますし、無人化したも同然の過疎地だけに来訪者や妻や家族が来るこも電話が鳴る事も殆どありませんから、然るに家屋内や近所の何処かで見動きもとれずに困り果て死に掛けていてもそのままになりますから、然るに孤独死・無縁死にもってこいの状況下です。

ちなみに死に至る状況下になっていても、まだ死ぬ時で無ければ、その必然ご縁の仕組みが起きて助かることになります。

また過疎地で暮らすことになったときに献体登録していますから、然るに死後の葬儀供養も不要とし、またお墓や仏壇に名を残す事無く、医大から届けられた遺灰を敷地に散骨・埋骨するだけでよいと家族に告げています。

然るに私が死ぬ前や死後に関わるそれらの人に迷惑&お世話をかける事無く静かに死ねる、その「愛のある死に方」を心がけているのです。

また私が死に至る重病になっても、そのまま素直に受け止めますから、むやみやたらと用心したり病と闘うことや輸血や移植治療を受けたり延命治療を望むことにはなりません。

何たって遅かれ早かれ死ぬのだからそんなに勿体がらないで素直に死を受け止めればいいのです。
しかも死すれば衣食住・名権財・比較競争もない穏やかなあの世で魂となって何の苦労も無くただ静かに生きていくのですから、何の心配もありません。
ただ未練執着していることや悩み悲しみ悔しさ妬みなどをこの世で捨てていなければあの世まで持ち越すことになるようです。

然るに前もって死に至る病気を用心したり恐れ怖がる事無く、またその死に直面しても恐れ怖がらずに素直に受け止める覚悟が出来ていますから、
だから死の病やその死に至ること自体に否定反発する事無くそのまま素直に受け入れられる、その「愛のある死に方」を実践する覚悟が出来ているのです。