孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

愛からして「ほっとける」が、愛情からして「火中の栗を拾う」ことになります。

2015年03月01日 | Weblog
このブログは精神世界の根幹となる自己満足と不平不満の関係を知ることができます。

ちなみに人間として生きていることに巷では何かと名目をつけていますが、その真実は自己満足と不平不満の矛盾&繰り返しで生きているだけなのです。

※何でそのことに多くの人が気付かないのでしょうか!

然るに不平不満が無ければ宇宙人も神様仏様&釈迦やイエスや超能力者の類が出る幕もその隙間もありません。

然るに不平不満が無くなればすべてが解決するのです。
そして後のことは宇宙&神&愛の仕組みに任せとけばいいのです。

然るにこのブログでは「食って寝て糞を」しながらにして平然と生きることを書いていますが、然るに欲を出して特別なことや余計なことに無理し頑張ることもなく(当たり前が如くに)素朴に生きることですが、
しかし生きていくことをおろそかにしたり怠けることではありません。

だから必然のご縁からして人から頼まれたときに、それが自分に当たり前に出来ることでまた暇な時であれば快く応じることになります。

ちなみに私の牛舎のパートの場合も、私からして捜し求めたことではなくて必然ご縁の仕組みが(人から人につながり)(短期間)次々と続いた結果からして今のご縁につながり、そしてオーナーが私を必然としていることからしてして(一日のうちの二時間程度ですが)(私も暇で退屈していますから)(6~7年間)現在まで続いているだけのことです。

然るに素朴に生きることからして変化刺激が少ないわけですが、
その変化刺激を求めれば(精神世界の根幹である)その自己満足と不平不満の裏表&苦楽を味わうことになるのです。

だからその変化刺激の自己満足を捜し求めなければその不平不満にもならないのは当然のことなのです。

ところが何かと気に入らないと(そのままにしてほっとけないから)それが不平不満に思うことになり、それが解決できなければ(満足できないから)その虚しさが覆い重ねられ、然るに不平不満が多いほどに生きている意味価値が希薄になります。

ところがそれでは生きていても面白さに欠けますから、その代替に趣味嗜好娯楽などの変化刺激や快感快楽の自己満足を求め欲しがるのです。

ところがその自己満足が叶えられなければそれが更に大きな不平不満になるし、また自己満足の質量に物足りなければそれも不平不満になります。

となると生きている中で自己満足よりも不平不満に思うことが多くなるわけです。
だから納得出来ないままに虚しく人生を終わるわけです。

ちなみに私の人生を省みれば、自分の学識知識能力や教養不足に劣ることを気にしないままにして、自分に出来る得意なことばかり(誰にはばかる事無く)やっていたことからして、
然るに自分を責めることにもならないから自分に不平不満にもならないし、かと言って理想目的を持って目指すほどの能力も無いと自覚していたから、

然るに先々のことは成り行き任せにして、今の自分に出来る得意なことばかりしていたから(その自己満足があっても)然るに自分が困ったり悩んだりのその苦悩(不平不満)が殆ど無くて、
然るに今も自分に出来る得意なことばかりして自信あるげに生きています。

然るに皆さんはどうでしょう、
今の(先祖供養を含めて)両親や夫や妻や子供らに愛情を込めていますね。
だからそれら人が困っていたり精神的に悩んでいたりすればその手助けを惜しみませんね。

然るにそれが「火中の栗を拾う」如くにもなるのです。
すなわち(何とかしたい愛情でもって)(確たる自信が無いのに)闇雲に進むことになりますが、しかしそれは(己にその自信が無ければ)自惚れ慢心からやっていることになります。
しかしそのことにはまったく気付きませんね。

然るにそれが自力能力を超えたことと認知できても(ワラにもすがる思いからして)その道の専門家や有識者先生を訪ね歩いたり、また信仰宗教や神仏霊魂や神懸り能力者などの他力に頼りたがりますね。

しかし不完全意識が原因のその結果も同じ不完全で矛盾のある中途半端な結果で終わることになります。
然るに余計なことを無理し頑張り無駄なことをしたことになります。

然るにそれが私の立場としたなら、自分の能力不足を知っていますから、然るにどうしようもないことは(気にはなるけれども)静かにしてほっときます。

そうなるとその物事に捉われ執着しませんから、然るに人のために私が巻き込まれないままにして平常心で過ごせます。

然るにどうしようもないことに首を突っ込まないで(巻き込まれないで)(自らの墓穴を掘らないで)済むのです。

しかし必然ご縁からして私を頼られることがあれば、「生きてさえいればそれで十分だから」「成るようになるだけだから」と語り、
然るに自他共にどうすることも出来ないことに執着しないで、然るに人間の意識が原因のその結果が出るだけだから、その成り行きに任せるしかないとアドバイスするくらいでしょう。

ちなみに己に自信がないことはやらずにして、己に自信があることだけをやっていれば不平不満にならずにして、その自力自信でもって生きていけるのです。

またその不平不満が無ければ代替の自己満足を捜し求めることにもならないのです。

然るに食って寝て糞をして生きているだけでも十分になるのです。
然るに欲が出ても欲張らずにして平然と生きていけるのです。

とは言っても人間誰しも弱点がありますから、その弱点をつかれた仕組みが起きれば、私とて他力にすがる思いになります。

だから己の自力自信におごる事が無いように、自惚れ慢心にならないように心がけていますから、然るに目立つ事無く静かにして、素直真面目謙虚にしていられるのだと思います。