孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私が学び知り実感した摩訶不思議の世界&見えない世界&精神世界を集大成したのがこのブログです。

2015年03月21日 | Weblog
私は戦後の物不足の中で育ち、そして高度成長時代に成人し、その目新しい食品の販売普及に励み、また目新しい趣味思考娯楽や家庭電化製品や音響や映像にも先駆け接し触れあいました。

然るに(今で言う)物質経済面での「自己縮小と自己拡大」の両方を味わってきたわけです。
そして貧しいながらも自然界に恵まれた戦後が人間らしい生き方に思えているわけです。

また過去の私は放任主義で育ち、然るに日々遊びほうけていたことからして学識知識や教養儀礼に劣りましたが、その反面目新しいことを先駆けていただけに、その当時では常識となっていなかった事柄や摩訶不思議の世界を先駆けていました。

先ずは日本の洗剤やサプリの常識を破るアメリカの洗剤やサプリをネットビジネスで先駆けました。
しかるにそれが後日の摩訶不思議な効果のある特殊機能食品や宇宙エネルギー製品を先駆けることになり、また同時に見えない世界の摩訶不思議や霊魂の世界を浅く広くも、また興味深く掘り下げる事柄もありました。

然るに(20年以上も前に書いていたのが)「101匹目の猿」の集合意識によるテレパシー現象の事実、幽体離脱や瞬間移動が起こること、また風水や気功や念力や四柱推命を成す者とご縁があり、また霊能者とのご縁で霊感霊力による手かざしやオーラー・金粉が見えたりする事実、霊魂の召喚覚醒と言霊で会話できる事実、それら霊能者に霊障があること、そして私のような素人が霊魂&霊界に深く関わることの障害&霊障を事実に体験しました。

その霊的障害に類似したことにあるのが巷のカウンセラーがその師のカウンセラー&セラピーを受けなければならない事実、そのカウンセラー&セラピーを受けなければ精神異常になったり老化が早まることの事実、然るにセラピーを施す者にもセラピーが必要なこと、

また電気を使わない原住民の視力聴力感覚が高い事実とその電気や照明を使う現代人の視力聴力感覚が弱っていくこと、然るに照明や映像や音響による弊害、然るに常識となっていなかった電磁波障害のことやまたデジタル時計が脳細胞&心精神に及ぶ弊害障害を指摘していた人もいました。

然るに現在の地上デジタル放送が如何なる弊害になるか懸念していますが、数年前から若年者の視力聴力五感五体の老化が早まっている事実があるようです。
然るに完全真理の耕栄さんが言っていた中に、現代の諸々の高速化によるそのしっぺ返しが「浦島太郎」現象になると語っていました。

何はともあれ(私の過去に)新たなことを先駆けながらも、それよりランクが上の新たな形に魅せられるとすぐに乗り換える、すなわち始まり終わりまた始まるという繰り返しがありましたが、その新たなワンステップごとに学び知り気付き実感納得した事実を他のブログに書き続けてきましたが、それら諸々が一本のレールのようにつながり続けた結果、このブログが(現在では終点となる)その集大成なのです。

然るにそれらランクごとの結果事実は既に卒業してその上をマスターしているのだから、
なのにこのブログを読んだ人が今からそれら諸々に(用済みのランク落ちしたことに)取り組むことになれば、それは無駄で余計なことになります。

だからそれら諸々を一本化した集大成の(私が諸々に仕組まれながらにして辿り着いた現在の)このブログを深く読んで、
然るに(それら諸々の結果に関心を持つことよりも)「結果の原因」となるその<心意識&精神世界>に取り組むことが肝心なわけです。

そしてこのブログで書いている「欲張らない」実践によって真の精神世界を実感し納得確信することができれば、それで巷の精神世界を卒業することにもなるのです。

そして良い悪いで判断する三次元界を死して卒業することになり、その意識&命が新たな高次元界の仕組みを先駆けることになると言われています。
ちなみにこの世で起きている様々な摩訶不思議&異次元や超常現象がその前兆なのかも知れません。

結果を出すために、その結果が出る術や施しでもって授受することは、真の精神世界ではありません。

2015年03月19日 | Weblog
信仰宗教に関わることで、その宗教の教えを学び知ることよりも、先ずは手っ取り早く己の中の悩みや苦しみが救われること(結果)を思い願い祈ることにもなります。

然るに超能力や霊力や念力やヒーリング・カウンセラー・セラピーなどを成す者に頼るのも、その結果を期待しているからです。

然るに本来の精神世界を学び知ることよりもその結果に関心があってのこととなるのです。

ちなみに私とご縁があった霊能者のときのことですが、その霊能者の周りを取り囲む先輩たちはその霊能者の成せる技に関心が高く、然るに此れまでどんなこと(摩訶不思議の結果)があったのか知りたがる人やまたそれら知っている結果を人様に話したがる人がいても、
肝心な霊魂の世界の何を語っているのか、その内容をあまり知らないままに、あの人は凄い、あの人は凄いらしい、と言うような「見える結果」に関心が寄せられている人が多くいました。

然るに新参の私のほうが霊魂の世界に詳しくて、その学び知った知識を私なりの文書にしてそれを配ることにもなりました。

また耕栄さんの完全真理も同様でして、その耕栄さんが成す摩訶不思議に関心が高く、その講演会を静かに真剣に聞いているように見えても、実は神が如くに憧れ敬う信者意識になっていて(ひっきりなしに講演会に参加しているベテランさえも上の空で聞いていたのか)その完全真理の知識記憶が低くて私との会話が長く続かずに終わりますから、然るに新参の私のほうが完全真理の内容に長けていたその事実が何度もありました。

そんなベテランの中に完全真理に反すること(不完全で矛盾すること)を知ったかぶりで新参者に教え回っている人もいました。
またそんな人ほど耕栄さんは凄いとして、様々な摩訶不思議の結果を新参者に触れ回って宣伝している人もいました。

ところで我が子に対する悩みを持つ親は大勢いると思いますが、
然るに子の悩みが親の悩みになるのですが、その子の悩みをその親が解決したがるところがありますから、然るに子供に現れ出ているその結果を何とかしたとして親が出しゃばることにもなっています。

そこで何らかの結果が出る事柄を子供に与えることを試みてみたり、また子供に自信が出るような手はずを整えたりと懸命になりますが、
然るにそれは結果が出る形でもってその悩みの問題解決の結果に立ち向かうわけですから、一時改善されたようにみえても、その悩みの原因である心意識精神が解決することにはならないのです。

だから同じ似たようなことが何度も繰り返されるわけです。

そこで何度も書いていることですが、己のことさえも「どうしようもない」くらいなのに、何で子供&人様の問題意識&心意識精神を修正改革できるでしょうか、
然るに絶対的に無理なのです。

そこでどうしようもない子の悩みを親が抱え込んで悩むことなく平常心で子と接することが出来れば、その悩みは悩みではなくなってやがて消えるのです。
それも急ぎ慌てないで静かにして待つことが寛容です。

然るに「執着」しないことが解決の糸口なのです。

然るに結果的には(見た目では)ほっとくことになるのです。

「遠くの親戚よりも近くの他人」が言われるが、逆も真なりで、その反対が真の精神世界にあります。

2015年03月17日 | Weblog
精神世界を意識しているならばこの世人間関係が矛盾に満ちていることを自覚納得できなければ意味を成しません。

然るに良いこともあれば悪いこともある、また悪かったことが後に良かったことになる、然るにその自己満足と不平不満、然るに喜怒哀楽、そして愛情と憎悪、絆と手綱、信頼と不信、また優しさ思いやりや義理人情とその裏切り、また自己正当化と否定反発排除したがること、然るに守るために戦うことになる矛盾、また信じられないから信じようとする矛盾、然るに愛がないから愛があるように見せかける、然るに誰しも欲があるのに欲がない振りをする、また飴と鞭の使い分けがあること、また天国を説くには地獄を説くことになる、然るに善を説くには悪が、優を説くには劣が、得を説くには損を説くことになります。

そんな矛盾のある不完全な形&関係からして何を成せどもその結果も矛盾があり不完全で中途半端ですから、人の思い方しだいで良くも悪くもコロコロと変わることにもなっています。

然るに人様の役に立っているようでその裏では迷惑をかけているところがある。
然るに良かれと思ったことが悪いことになっている。
然るに善意が仇アダになる。

ちなみに私の親戚の叔父さんがその親戚や親しい人に挨拶かわりに畑の産物を配ったりしていましたが、受け取った側もその分だけ気を使いますから、結果的には親切の押し売りに近いし、また来られたからにはほっとけないから、結果的にはその分だけ世話(迷惑)を掛け、また人様の生活の中の大切な時間の途中に割り込み邪魔したことにもなります。

しかもその叔父さんが重病で入院したときに見舞いに来る人が思うより少ないとかその回数が一回だけだっとか言って、あれほど親切にしていた叔父さんを裏切ったとして、その叔父さん自身もその叔母さんや長男までが同じように不満をあらわにしていました。

ところで「遠くの親戚よりも近くの他人」という言葉があります。
ちなみに妻や家族と離れてる私は他人同然の遠くの親戚にあたります。

然るにその遠くに離れて暮らす他人同然の私にたいして家族は気遣いしません。
そして当然ながら私から遠く離れている妻や家族に私が気を使うこともありませんから、然るにお互が気楽な「お互い様」の関係になっています。

ところが気遣いされないと孤独になります。
それを天秤に掛けると、気が楽なのと気が重い(気疲れ)のと、また賑やかなのと孤独の何れかを選ぶことになりますが、
実際に孤独の自由を味わうとその気楽に生きていけることがアリガタイことになります。

然るに先ほどの叔父さんの事例であるように、気遣いされるのも、また気遣いするのも双方に問題があるし、しかも気疲れするのです。
だから余計なことをしたり無理したり頑張ったりしないで呑気気楽に生きていけばいいのです。

ちなみに苦労・苦悩をもっていれば気が重くなり暗くなります。
そうなれば更に苦労・苦悩を呼び込み仕組まれ背負い込み更に重く暗くなります。
反対に気が楽で明るければ苦労・苦悩を呼び込みません。
然るにいつも気楽で明るくなります。

ちなみに皆さんは自己満足でもって(人前で)明るく振舞っているのではありませんか、
だから内心では不満不安心配恐れを持っているでしょう、

また孤独が孤独感にもなるから常に人間関係を守ろうとしていませんか、
然るに(ほっとけないで守ろうとするから)それだけ苦労・苦悩・難儀することもあるはずです。

然るに私の場合は仕組まれながらにして私を捨てることが出来たから、その結果からして苦楽・矛盾のある人間関係を捨てたことになったのです。
然るに互いが気遣わないで済む関係、然るに必然ご縁に限った人間関係の「遠くの親戚」になったのです。

そこで付け足しますが、
祖供養や親孝行などは「ほっといて」いても、やがて順繰り順番でその立場になりますから、
然るにこの世は誰もが皆「お互い様」であり「お陰様」の人間関係で成り立っているのです。

だから特別に気遣わないままの普通でもって成り行き任せにして「ほっとけ→仏に任せて」いればいいのです。

「ほっとく」ことが出来ないのは己のやましい欲からです。

2015年03月14日 | Weblog
食って寝て糞をしながらにして生きて、その後は成り行きに任せにしてほっとくことに違和感がありませんか。

然るに生きていくための基本的なこと以外は(特別なことは)成り行きに任せて「ほっとく」ことになります。
すなわち全知全能の完全なる宇宙&神&愛の仕組みに任すことになります。

ちなみに信仰宗教でも神に任す、仏に任す、神の心に託す、仏の心にゆだねる等が言われています。
ところが困っている人を助け救い上げる優しさ思いやりや援助救済や布教活動の実践を促すこともあります。
然るに「ほっとけ」ない矛盾があります。

ちなみに韓流ドラマ「辛ドン~高麗中興の功臣~41話」の中で、人里離れたお堂にこもって三年間の修行中の僧侶の世話をしている女性が数人の敗残兵に襲われ苦難しているのに(俗世の縁を切る)修行中だからお堂から出て助ける行いが(仏法の戒律を破ることになるから)出来ません。
然るにそのまま成り行きに任せて(仏に任せて)「ほっとく」ことが出来るか否かの試練が仕組まれたわけです。

それは創作ドラマだからのことですが、仮に私に仕組まれたとすれば(完全真理の実践からして)その危険極まりない渦中へ飛び込んで助けることが出来るだけの武術能力知恵もなく危険を犯すその勇気も無いから、致し方なく成り行きに任せてほっとくことになります。
また仮にその難儀している女性が家族であっても、私に成す術が無ければむやみに渦中に飛び込む事無く、事の成り行きに任すことでしょう。

そこで私見ですが
(前世から引き継いだことも含め)先祖供養や親孝行をする必要が無いと悟った者にはそれらが仕組まれないようです。
それを言い換えれば先祖供養や親孝行が必要と思っている者やそれを中途半端にしている者にその先祖供養や親孝行が何度も仕組まれるようです。

然るに「ほっとけ」ないその意識(私は正しいことをしている、それを守りたがる意識、目立ちたがる見栄や世間体=我欲が原因)からして己が呼び込み引き込み結果的には仕組まれたことになるのです。

然るに我が子が難儀しているのにその成り行きに任せてほっとけるだけの心意識がある者に、その子供が困り果てるような結果の仕組みが起きて、その子も親も困り果てるようなことにはならないでしょう。

だから先ほどの韓流ドラマが如き仕組みが私に起こる確立は宝くじの最高額に当選するよりも低いでしょう。

ところでその困ったと思うのは(守りたがる)欲があるからです。
然るに子供自身が困っていても、親など周りの者がそれを困ったことに思わないで冷静にしていれば、その子供も大げさに思わなくなるのです。

何はともあれ欲張らなければ困らないのです。
なのに欲張り続けるから(墓穴を掘って)更に大ごとになるのです。
然るに精神世界も単純なのです。
なのに大げさにして惑わしているのです。

すなわちこの世は「すべて意識」にあり、その意識によってその結果が出ている事実、すなわち意識が原因からしてその結果が出ている事実があり、然るに「結果じゃないよ、心意識だよ」となるのが真の精神世界です。

そこで例えば、成り行きに任せたことで我が子が死んだとしても、それは「死ぬ時が来て」それが「仕組まれた」だけのことです。
然るに未だ「死ぬ時」でなければ「助かる」のです。

然るに誰も手を施せない状態なのに(飛行機事故や自然災害などで)奇跡的に助かる事例がたくさんあります。
然るに神が(その人を選んで)直接手を施したのではなくして、その人の寿命・運命・役割使命からして、その必然ご縁の仕組みの奇跡が起きたのです。

ちなみに近代文明の下で欲まみれにして「死んだも同然」の生き方をしている人たちは、然るにいつ死んでもおかしくない状況下になっているといっても過言ではありません。

ちなみに「運が強い人」がいて危険なことを繰り返していると、その自惚れ慢心からしてその裏が出て結果的に悲惨な死に様に到る人もいます。

何はともあれ日々の些細なことを気にする事無くほっとけることからして(それを味わうことから)さらにその精神力自信が高まっていくのです。

逆に小さな事に執着する人ほど困ったと思うことが増えるし(その己の意識に気付きなさいとばかりに仕組まれ続けて)さらに大きなことに直面することにもなるのです。

何事も守るから捨てられないのです。然るに守らなければ捨てる必要もなくなるのです。

2015年03月13日 | Weblog
私が様々に仕組まれたことからして過疎地での単身暮らしになって、そこで気付いたことは、
夫婦だから、家族だから、夫だから妻だから(男だから女だから)、我が子だからと、それらを特別に思っていたことです。

そして同じ屋根の下でいつも一緒だから、お互いに(自他ともに)優しさ思いやりが無ければそれが不平不満になることです。

更に夫であれ妻であれ子供であれ、それら自身の思い思惑・理想目的&将来の希望や不安があり、またそれら皆の思い思惑理想目的将来の希望や不安までが入り乱れて皆に絡んできます。

しかも家族生活の中だけのことではないから、然るに夫は仕事関係やその対外関係と言うように、妻は妻なりに子供は子供なりにその対外的な活動からも不平不満を家庭の中に持ち込んできます。

だから家庭内に不平不満が満ちてきてそれが根付くのです。
しかもそれぞれの者の不平不満の一つ一つを元から根本的に解決することは絶対的に無理なのです。

だから「どうすることも」出来ないから、然るに成すすべも無く「どうしようもない」となるのです。

そこでその不平不満を趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽などの自己満足で補い合うことになるのです。

然るに過去の私は「そんな事ともつい知らず」にして(考える暇も無く)日々の生活に追われていました。

ちなみに同じ屋根の下で暮らしているからこそ他力依存・期待願望の「思い」を持つことにもなり=他力の優しさ思いやりを思うから=それが事欠けば不平不満にも変わるのです。
然るに己自身が「思わなければ」問題も無くそのままになるのです。

だから私一人の暮らしだと、自他共にその優しさ思いやりの授受関係を「思わずに」すみますから、然るに私が不平不満も思わずにすむし、また相手を思いやる(不満を満足に変える)その気苦労がありません。

だからいつも呑気で明るく元気に暮らせます。

然るに過疎地での単身暮らしを味わったからこそ過去の家族生活の矛盾欠点に気付き、しかも人様・家族の意識を変えるなんてのは神頼みにしても到底無理だと知り気付き納得確信したから、然るに家族であれ世間であれ国家社会であれ「どうしようもない」と悟ったわけです。

だから己の精神意識を重んじるならば、自己拡大と自己縮小の両方を味わう必要があるのです。
また自己満足と不平不満・信頼と不信・絆と手綱・愛情と憎悪などの矛盾、
また天国と地獄・飴と鞭・ご褒美と罰などの矛盾とその使い分け、
然るに完全と不完全の両面を学び知り気付き納得確信する必要があるのです。

然るに恋人・夫婦・家族などの人間関係は学び合う関係であって、それらを重要視すると「自由」が損なわれますから、それらを固守する必要はまったく無いのです。

然るに何事も守るから捨てられないのです。
然るに守らなければ(成り行き任せになるから)わざわざ捨てる必要もなくなるのです。

然るに自他共に守らずに(否定反発排除のない愛&自由からして)その自由意識からして己が思うままに生きて、この世の様々な矛盾裏表を味わえばいいのです。

然るに欲張らずにして、然るに無理する事無く、自分が当たり前に出来ていることをしながら後は成り行きに任せとけばいいのです。

然るに人間関係のことは「どうしようもない」が、己一人のことなら今まで何とかしてきたのだから、然るに此れからも「何とかなる」のです。

だから(人様のことは気にせずに)(来る者は拒まず、去る者は追わずにして)「何とかなる」己自身のために新たな生き様(自己拡大から自己縮小)(無理の無い生き方)にして、その己の意識を改革修正すればその結果も自ずと味わえるわけです。

己が土壺にはまったり墓穴を掘ることになって自由に身動きが出来なくなるのが巷の精神世界です。

2015年03月12日 | Weblog
信仰宗教・超能力・霊力・念力などを施し成す者たちに頼らなくても、それら諸々の語り説く精神世界を学び知ることが出来る、その簡単便利さに恵まれた環境下にいるのが私たちです。

だからそれら輩に憧れ信じ頼ってそこに集まらなくてもその精神世界・スピリチュアルを学び知りその実践も出来るわけです。

なのに特別な能力を神業が如くに出して人様を魅了させる、それら輩に憧れ敬う者たちが多いわけです。
だから如何なる精神世界を語り説いているかよりも、その輩の特別な能力に魅せられ信じ頼ることにもなっているのです。

ちなみに宇宙万物にその役割を果たすためのエネルギーを持っています。
然るに人間の意識&命にエネルギーがあります。
そして神業が如くの能力を持っている人は並の人間よりもはるかに高い意識力&意識エネルギーを持っています。

そこで信じるか否かになりますが、例えば釈迦やイエスなどが偶像化され奉られると、その偶像が奉られている所々がその魂の居場所や行き場所と定まって自由が制限されます。
ちなみに「千の風になって」の歌詞のように自由な魂となって動くことがままならなくなります。

然るに大勢の信者・崇拝者から奉られ偶像化されたのも、その奉られた輩やその信者・崇拝者の心意識に邪な欲絡みにの原因があってのことですから、それら奉られた所のパワーと信者・崇拝者が大勢集まるそのパワーが重なり(巷で言う)パワースポットになりますが、元からして邪な欲絡みが原因ですから、そのパワースポットなる所にむやみに関わらないほうが無難なのです。

ちなみに神社仏閣教会などの建造物や神殿祭壇偶像だけではなく(宗教絵画や装飾模様も含め)周りの鳥居や狐などの石像にも(邪な洗脳を受ける)エネルギー&パワーがあります。

然るに超能力・霊力・念力に(摩訶不思議の結果に)魅せられたり、またそれら特別な人が奉られている箇所や偶像やまた巷のパワースポットなどの摩訶不思議に対する(素人さんの)単なる好奇心からして結果的に墓穴を掘ることにもなります。
だから「触らぬ神に祟りタタリなし」と言われるわけです。

だからサイババの写真を(神が如くに信じて)奉っていると何やら灰みたいな物質や蜜みたいな流動物が付着したり流れ出ることもあるし、また教会のマリア像から赤い血が流れたり、キリスト信者の手の平や足に杭に刺されたようにして血が流れる現象が起きることもあるのです。

またご縁があった霊能者が言うには、幣立神社(へいたてじんじゃ)に奉られている岩から宇宙人らしき二つの眼が見えたそうです。

然るに何がしの結果を求め期待してそれら神社仏閣や教団教会神殿に参拝したり、また聖なる地へ巡礼する者たちが絶えないわけです。

ちなみに欲が無ければ参拝したり巡礼したりはしません。
また結果を求めることは「結果じゃないよ、心意識だよ」の真の精神世界に反するのです。

その結果に魅せられて人が集まることは、何らかの欲のある者たちの意識からして(その同じ欲を持つ)邪な輩のパワー&意識エネルギーに引き寄せられているとも言えるのです。
だからこの世の精神世界が矛盾のあるヘンテコなことにもなっているのです。

なのにそれでも摩訶不思議を知りたがる、好奇心を満たしてくれる、そんな精神世界のままにして人間を終わるのですか、
然るに摩訶不思議のパワーに魅せられてその土壺にはまったままにして終わるのですか、
また自分に都合が良い結果・ご褒美が期待できるそんな精神世界を求めるがままに終わるのですか。

それよりもこの世の矛盾から離れられることの出来る真の精神世界に身を置くほうが(土壺&墓穴を掘らずにして)己のためにも人のためにもなるのではありませんか。

「どうにもならない」人間意識と実践の伴わない精神世界からして「どうでもいい」ことになる。

2015年03月11日 | Weblog
このブログに日々70人ほどの人が訪れていますし、日本ブログ村の「人間・いのち」では10位以内にランクされていますし、また「スピリチュアルメッセージ」では30位あたりにランク付けされていますから、それなりの人が訪れていることになります。

しかし精神世界を趣味嗜好娯楽が如くの話題性として読み、その知識を溜め込むことで満足している人も相当数いると思っています。

ところが幾ら知識を溜め込んでみてその知識を自慢げにして人様に話したくても、それを聞き入れてくれる身近な人が周りに居ないはずです。
そこで致しかたなく己の頭の中でその知識を思い考え描き、その「絵に描いた餅」が如くの精神世界を眺めたりそれをブログなどにして自己満足して終わっているはずです。

それでも時たまに「目の鱗が落ちた」が如くの新鮮な気持ちで読まれている人もいるはずと思っています。

しかしそれでも実際に実践しなければ確かな自覚納得悟りには至りませんから、その内に飽きてきて「どうでもいい」ことになりタダ読むだけで終わったり、また同じ内容や言葉が続くことからして嫌気がさして(深く読まないままに)離れていくことになる人も多いはずです。

然るにそれら類の人が新たに入れ替わり立ち代り来られているから、このブログの来訪者が概ね同じ位置になっているのだと思っています。

ちなみに私の娘が縁から仕組まれて、その私が予測もしていなかった過疎地暮らしになったり、また耕栄さんの完全真理に私が引き込まれたのも娘が仕掛け人でしたから、然るに私の道先案内人のお役をしたことになります。

ところが耕栄さんを神が如くに信じていた娘なのに、更にあれ程ファバラを信じて愛用していたのに、ところが今やその耕栄さんもファバラも完全真理も「何処吹く風」が如くになっています。

また私と霊能者とのご縁が続いているときに、その私の過疎地暮らしに関心を寄せ、また宇宙エネルギーに関心を寄せてその浄水器を購入し、その浄水器が縁となった霊能者にも関心を寄せ、また次の完全真理やその耕栄さんやファバラに関心を寄せたことからして私と行動を共にする機会が多くなったある独身女性も、今や宇宙エネルギーや霊魂の世界も完全真理もファバラも何処吹く風が如くに会話すことも無くなり、つい最近長く続いたそのご縁もどうやら終わったようです。

ところがそれを省みると面白いことに、私と霊能者とのご縁を断ち切るそのきっかけを果たしたり、また耕栄さんに対する私の違和感に決定的な自信を加えてくれたのがその独身女性だったのです。
然るに霊能者や耕栄さんのご縁がそれっきりで最後となるその現場での縁切り仲立ち人・立会人の役目をしてくれたことです。

然るに私の道先案内人を果たしただけで終わったのが私の娘であり、また霊能者や耕栄さんから私を切り離しただけで終わったのが独身女性だったわけです。

然るに結果的に私には都合が良かったことになったのですが、しかし私の娘や独身女性は此れから先いったいどうなることかと少し気になるところです。

然るに精神世界に関われども、実践の伴わない精神世界ならば結果的には先に進めずにして「どうでもいい」ことになるのです。
だからいつも私一人で土俵に上がり一人で相撲をしているように思えるわけです。

何か異論反論ご意見があれば書き込んでください。

愛のある「生き方」と「死に方」

2015年03月10日 | Weblog
私の過去に、必然ご縁の仕組まれにして「愛のある霊能者」とご縁が続き、そこで「否定反発排除」のない愛を学び知り、次なる仕組みで完全真理の説く宇宙&神&愛の意識となる「あるがまま」を学び知りました。

それを簡単に言えば成り行き任せの自然体の当たり前が「愛」であり、何かと拘り執着することになるその特別な思いは愛情だったり憎悪だったりするのです。

ちなみに己が意識している人(特別な思いを寄せている人)に対して己の心の優しさのその思い(思いやり)を込めて表現行動することは(愛ではなくして)愛情になるわけです。

然るに執着心になると心にゆとりが無くなり、その分だけ心に隙間が空きます。
然るに「間が空く」=「まがあく」→「あくま」=「悪魔」となり、その心の隙間に悪が入り込み、そこで悪さが仕組まれるのです。

ちなみに何ら特別な思いが無くて、ただ食って寝て糞をしながらにして生きることが当たり前の如くになれば、それが愛のある生き方になるのです。

ところが特別を欲し求めることでその苦楽が伴い、それに執着するほどそれだけ心身が疲れストレスになります。
そのストレス&心の隙間に悪が入り込み(油断することになり)それが原因から事故や怪我にもなるし(病は気からして)病気にもなります。

その怪我や病気からして死ぬことに不安心配恐れを持つことになります。
そこで我が身を守ることになり、その怪我や病気と闘うことにもなります。
然るに怪我や病気を否定反発排除したがることになりますから、それでは「愛のある生き方」とはなりません。

しかも悪い箇所を手術で切除排除することや人様の血液を輸血したり臓器を移植することにでもなれば、俗に言う神を恐れぬ、その思い上がり傲慢ですから、然るに宇宙&神&愛を否定反発排除する裏切りになります。

然るに(己が死にたくないために)人類創造の宇宙&神の愛を裏切って否定反発し排除する(切り捨てる)ことになりますから、然るに生き延びることが出来ても(愛を知らない人間失格となり)死んだも同然の心持で生き延びることになるでしょう。

だから私は食って寝て糞をするだけのような、然るに苦楽の無い生き方、然るに楽チンにして省エネとなる生き方、然るに心身にストレスを及ぼさない生き方にして、心身ともに健全な生き方となる、その欲張らずに素朴に生きる「愛のある生き方」の実践を心がけているのです。

また過疎地でもって孤独死することを望んでいますから、然るに死を見届けてくれる家族さえも居ないままに無縁死となるその覚悟があります。

然るに健康診断は20年以上受けずにいますし、無人化したも同然の過疎地だけに来訪者や妻や家族が来るこも電話が鳴る事も殆どありませんから、然るに家屋内や近所の何処かで見動きもとれずに困り果て死に掛けていてもそのままになりますから、然るに孤独死・無縁死にもってこいの状況下です。

ちなみに死に至る状況下になっていても、まだ死ぬ時で無ければ、その必然ご縁の仕組みが起きて助かることになります。

また過疎地で暮らすことになったときに献体登録していますから、然るに死後の葬儀供養も不要とし、またお墓や仏壇に名を残す事無く、医大から届けられた遺灰を敷地に散骨・埋骨するだけでよいと家族に告げています。

然るに私が死ぬ前や死後に関わるそれらの人に迷惑&お世話をかける事無く静かに死ねる、その「愛のある死に方」を心がけているのです。

また私が死に至る重病になっても、そのまま素直に受け止めますから、むやみやたらと用心したり病と闘うことや輸血や移植治療を受けたり延命治療を望むことにはなりません。

何たって遅かれ早かれ死ぬのだからそんなに勿体がらないで素直に死を受け止めればいいのです。
しかも死すれば衣食住・名権財・比較競争もない穏やかなあの世で魂となって何の苦労も無くただ静かに生きていくのですから、何の心配もありません。
ただ未練執着していることや悩み悲しみ悔しさ妬みなどをこの世で捨てていなければあの世まで持ち越すことになるようです。

然るに前もって死に至る病気を用心したり恐れ怖がる事無く、またその死に直面しても恐れ怖がらずに素直に受け止める覚悟が出来ていますから、
だから死の病やその死に至ること自体に否定反発する事無くそのまま素直に受け入れられる、その「愛のある死に方」を実践する覚悟が出来ているのです。

心身のストレスが万病の元となっているのが90%以上として医学会で言われています。

2015年03月09日 | Weblog
人間は心意識で生きています。
然るに日々の生活で真の精神世界を意識しているのと世間的な事柄に意識が使われているのとでは自ずとその生き様が違ってきます。

また真の精神世界を意識して暮らしていれば何事かあったときに己の意識の有様に気付くことができます。
だから不平不満&自己満足に執着することなく穏やかな心持でいられます。

ところが世間一般的な生活に意識が使われていたなら、何事かあったときに執着することになりますから、その分だけ心を乱した生き様が続きます。
そして「病は気から」にして、その心のストレスが万病の元となっているのは90㌫以上として医学会で言われています。

だから(私の場合は)真の精神世界を意識して暮らしているほうが(他ごとに巻き込まれずに)(墓穴を掘らずに)自分の心精神の保全になっています。
だからなお更に世間ごとや家族関係のごたごたを気にしないままにして己の心精神を意識した生き様になるわけです。

「人間は心意識で生きている」なのに「結果」に拘ると不平不満と自己満足の苦楽で生きることになる。

2015年03月09日 | Weblog
全知全能の宇宙の仕組み、完全なる宇宙・神・愛の仕組みからして、人間は孤独にして、また何も持たない裸にして生まれ、また同じように裸にして何も持たずに孤独にして死にます。

然るに誰もが皆に「公平」なのです。

また孤独は自由にして生きるためなのです。

また(遅かれ早かれ)何も持たずに死ぬのだから、金銭物質に拘らないで生きていけばいいのです。

然るに人間として生まれたからには、産まれたての赤ちゃんからして既に己の心意識・思いでもって生きていきます。
しかも自分の都合が良くなるように、その良いとこ取りをしながら成長していくのです。

だから幼子が駄々をこねるのも、また成長ごとに親の言いなりにならないのも、すでに(前世の繰り返しからして)持って生まれた役割&性格個性からして、概ね己の生き方の方向性が定まっているからです。

然るに我が子と言えども「どうしようもない」のが現実事実なのです。

なのに親の思い・願い・欲目・期待からして(親の傲慢さからして)何かと子に押し付けようとするから(余計なことを口出し手出しするから)然るに親として「納得」できない子供になるのです。

だから成長と共に成るようになる、その成り行きに任せ(自然体&自由)(親が出過ぎないように)(親離れ子離れ)にしておけばいいのです。

ちなみに子供が何かあるごとにその父親や母親や爺ちゃん婆ちゃんや兄弟姉妹に駆け寄るのも、またそれらの人から逃げ隠れするのも、その良いとこ取りのご都合からです。

然るに私の場合は両親や兄弟や妻にも子にも、己から先んじて関与せずにして、ただ静かに成り行きを見届けてきましたし、今もまったく同じです。
然るにそれが(薄情とも思える)愛であって(裏切り関係がある)愛情ではなかったのです。

ちなみにそれが間違いではなかったと(現時点の結果が良かれ悪しかれ関係なく)(私自身が納得確信したから)ブログに書くことが出来ているわけです。

然るに結果に関係なく「納得」できれば己の中で問題にはなりません。
然るに執着しなくなります。

だから皆さんも納得できる生き方にすれば何ら問題なく平然と心穏やかに暮らせるのです。

然るに「結果じゃないよ、心意識だよ」となるのです。

だから「人間は心意識で生きている」のです。

然るに「結果」に拘ると(欲張ることにもなり)不平不満と自己満足の苦楽で生きることになるのです。