孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「遠くの親戚よりも近くの他人」が言われるが、逆も真なりで、その反対が真の精神世界にあります。

2015年03月17日 | Weblog
精神世界を意識しているならばこの世人間関係が矛盾に満ちていることを自覚納得できなければ意味を成しません。

然るに良いこともあれば悪いこともある、また悪かったことが後に良かったことになる、然るにその自己満足と不平不満、然るに喜怒哀楽、そして愛情と憎悪、絆と手綱、信頼と不信、また優しさ思いやりや義理人情とその裏切り、また自己正当化と否定反発排除したがること、然るに守るために戦うことになる矛盾、また信じられないから信じようとする矛盾、然るに愛がないから愛があるように見せかける、然るに誰しも欲があるのに欲がない振りをする、また飴と鞭の使い分けがあること、また天国を説くには地獄を説くことになる、然るに善を説くには悪が、優を説くには劣が、得を説くには損を説くことになります。

そんな矛盾のある不完全な形&関係からして何を成せどもその結果も矛盾があり不完全で中途半端ですから、人の思い方しだいで良くも悪くもコロコロと変わることにもなっています。

然るに人様の役に立っているようでその裏では迷惑をかけているところがある。
然るに良かれと思ったことが悪いことになっている。
然るに善意が仇アダになる。

ちなみに私の親戚の叔父さんがその親戚や親しい人に挨拶かわりに畑の産物を配ったりしていましたが、受け取った側もその分だけ気を使いますから、結果的には親切の押し売りに近いし、また来られたからにはほっとけないから、結果的にはその分だけ世話(迷惑)を掛け、また人様の生活の中の大切な時間の途中に割り込み邪魔したことにもなります。

しかもその叔父さんが重病で入院したときに見舞いに来る人が思うより少ないとかその回数が一回だけだっとか言って、あれほど親切にしていた叔父さんを裏切ったとして、その叔父さん自身もその叔母さんや長男までが同じように不満をあらわにしていました。

ところで「遠くの親戚よりも近くの他人」という言葉があります。
ちなみに妻や家族と離れてる私は他人同然の遠くの親戚にあたります。

然るにその遠くに離れて暮らす他人同然の私にたいして家族は気遣いしません。
そして当然ながら私から遠く離れている妻や家族に私が気を使うこともありませんから、然るにお互が気楽な「お互い様」の関係になっています。

ところが気遣いされないと孤独になります。
それを天秤に掛けると、気が楽なのと気が重い(気疲れ)のと、また賑やかなのと孤独の何れかを選ぶことになりますが、
実際に孤独の自由を味わうとその気楽に生きていけることがアリガタイことになります。

然るに先ほどの叔父さんの事例であるように、気遣いされるのも、また気遣いするのも双方に問題があるし、しかも気疲れするのです。
だから余計なことをしたり無理したり頑張ったりしないで呑気気楽に生きていけばいいのです。

ちなみに苦労・苦悩をもっていれば気が重くなり暗くなります。
そうなれば更に苦労・苦悩を呼び込み仕組まれ背負い込み更に重く暗くなります。
反対に気が楽で明るければ苦労・苦悩を呼び込みません。
然るにいつも気楽で明るくなります。

ちなみに皆さんは自己満足でもって(人前で)明るく振舞っているのではありませんか、
だから内心では不満不安心配恐れを持っているでしょう、

また孤独が孤独感にもなるから常に人間関係を守ろうとしていませんか、
然るに(ほっとけないで守ろうとするから)それだけ苦労・苦悩・難儀することもあるはずです。

然るに私の場合は仕組まれながらにして私を捨てることが出来たから、その結果からして苦楽・矛盾のある人間関係を捨てたことになったのです。
然るに互いが気遣わないで済む関係、然るに必然ご縁に限った人間関係の「遠くの親戚」になったのです。

そこで付け足しますが、
祖供養や親孝行などは「ほっといて」いても、やがて順繰り順番でその立場になりますから、
然るにこの世は誰もが皆「お互い様」であり「お陰様」の人間関係で成り立っているのです。

だから特別に気遣わないままの普通でもって成り行き任せにして「ほっとけ→仏に任せて」いればいいのです。