元々からこの世にいるのが私一人であれば孤独も元々からありませんから、それが孤独感になることは絶対にありません。
また私一人だから喧嘩する相手もいませんから、その喧嘩(戦争)になることも絶対ありません。
また私一人だから誰からも束縛制限支配されたり否定反発されることも差別されることもありませんし、何をやるにも自由です。
すなわち私一人なら元々から自由で差別も喧嘩も戦争もありません。
それを現在のこの世に当てはめると、複雑な人間関係があるから孤独感を味わい、そして良い悪いで判断しているから不平不満の喧嘩や差別を思う様になり、また何かと束縛制限されて不自由な思いをしているわけです。
だからその良い悪いで判断することが続く限りその人間関係に自由も平等も調和もありません。
その人間関係があるからこそ完全真理が役立つのですが、その完全真理を実際に実践していなければ、その完全真理があっても何ら役立つことにはなりません。
しかもその完全真理の実践を人様に強要することには無理がありますから、その完全真理の真実・真価を知ったものだけが独自で実践するしかありませんので、世の為人の為の完全真理というよりも、先ずは個人の意識を変えるための真理になります。
ところで孤独感に陥っている人や差別されて困っていると思っている人や喧嘩や戦争が起きていても「どうする」ことも出来ません。
そこでそれら意識の人の意識を改革するしかありませんが、それも皆に押し付け強要することは出来ません。
だからいつまで経っても皆が自由平等調和の人間関係になることは絶対にありません。
だからせめても「自分ひとり」が自由平等調和の意識になる実践しかありません。
しかしその実践にも複雑な人間関係が邪魔立てし障害となる事実がこの世にあります。
しかしその実践の難しさを思うのも、その人の意識に原因があることですから、やはりその人個人の意識を変えるしかありません。
だからそれを他力任せの他力願望でいる限りにおいてはそれも「どうすること」も出来ません。
また著名人の著書を読んで感動したり眼のウロコが落ちても、その実践が無ければ「絵に書いた餅」で役立ちません。
また生きているからにはその人間関係の愛情・恩義も必然ですが、それで自由平等調和になることは絶対にありません。
それどころかその人間関係に束縛制限されたり、時には私が正しいとばかりに否定反発されかねません。
しかも一番身近な人間関係ほど実践の邪魔立てや障害になって難儀しますが、それを跳ね除けてまで無理に実践するとその裏が出て自らが困ったことにもなり兼ねません。
それでも、事が完全真理だけに、なにかと無理をしても、その価値が報われることになるかもしれませんが、その為には先ず完全真理の真実・真価を深く学び知り自覚悟りとなり、その確かな自信と自力とその精神力(勇気・決断と実行)と、へこたれずに持続できる力・意思・意識力が無ければ中途半端に終わるやもしれません。
すなわち己の意識を改革変化させるにもその己の意識が問われるわけですから、完全真理の実践もそう容易くはありません。
ところがものは考えようで「どうにでも」変わるものですから、世間の人間関係がどうであれ、身近な人たちの意識がどうであれ、見栄や世間体や自尊心・プライド・価値観を捨て去り、何が無くても「生きて」さえいればそれで十分に思える精神・意識になれば、それまでの実践の無理が無理ではなくなり、いとも簡単な事になります。
それがあらゆる欲を捨ててその欲を二度と持たないことです。
だったら「食って寝て糞をするだけ」のような生活にも馴染めますから、例えホームレスやルンペンの格好になっても平然と平常心で生きていけますし、その暮らしぶりの中に(未知なる)味わい深いさを感じることからして、いま生きている事を十分に味わえます。
また「長く生き続けたい」と欲に思わなければ死さえも普通に思えます。
そして成り行き任せの自然死を望んでいれば、それが病死や事故死や突然死や無縁死や孤独死であっても、何の不安心配も恐れも出ないままに生きていけますから、実際にはどんな死に方になるかは判らないが、しかし生きている限りにおいてはその死に方を実際に味わうことには絶対にありません。
だから生きている限りにおいては大丈夫なのです。
しかしそれが実践できないのであればやはり何らかの欲を持っているからです。
そしてその欲から不平不満や不安心配や恐れを持つことにもなっているのですが、しかし欲を持たないほうが気楽で楽ちんでしかも今まで味わったことがない未知なる味わいまで出来るのですから自分から文句が出るはずもありません。
しかしその文句が出るのであれば、それはまだ欲が残っていたわけですから、その責任は己の意識にあります。
だから問題が出るのも、その問題が消えるのも、その己の意識次第なのです。
それを人様の性にしていれば、それが自らの生き方までが人様の性・影響にも思えますから、(結果的には)自らの意識でいまを生きている事を味わうことが出来ないわけです。
そしてその代替に何かを捜し求める欲の繰り返しにもなっているのです。
そして更に一つより二つ三つと(無いより有るほうがいいからと)欲張ることにもなっているのです。
ところがその反対に何か一つでも欲を捨てれば(あるより無いほうがいいことになり)二つ三つと捨てることが多くなる筈です。
しかしこの事例も完全・絶対ではありません。
また耕栄さんやファバラを信じることで大丈夫と思っていても完全・絶対ではありません。 また耕栄さんが言われ通りに義理・人情・愛情・恩や儀を大切に思って実践している人も完全・絶対ではありません。
同じく信仰宗教の神仏や教祖を信じて祈願している人も完全・絶対ではありません。
そのいずれも完全ではありませんから(絶対ではないから)、この先の結果がどうなっていくかは不確かです。
だから完全・絶対を言えるのは「完全真理」の中にしかありません。
また私一人だから喧嘩する相手もいませんから、その喧嘩(戦争)になることも絶対ありません。
また私一人だから誰からも束縛制限支配されたり否定反発されることも差別されることもありませんし、何をやるにも自由です。
すなわち私一人なら元々から自由で差別も喧嘩も戦争もありません。
それを現在のこの世に当てはめると、複雑な人間関係があるから孤独感を味わい、そして良い悪いで判断しているから不平不満の喧嘩や差別を思う様になり、また何かと束縛制限されて不自由な思いをしているわけです。
だからその良い悪いで判断することが続く限りその人間関係に自由も平等も調和もありません。
その人間関係があるからこそ完全真理が役立つのですが、その完全真理を実際に実践していなければ、その完全真理があっても何ら役立つことにはなりません。
しかもその完全真理の実践を人様に強要することには無理がありますから、その完全真理の真実・真価を知ったものだけが独自で実践するしかありませんので、世の為人の為の完全真理というよりも、先ずは個人の意識を変えるための真理になります。
ところで孤独感に陥っている人や差別されて困っていると思っている人や喧嘩や戦争が起きていても「どうする」ことも出来ません。
そこでそれら意識の人の意識を改革するしかありませんが、それも皆に押し付け強要することは出来ません。
だからいつまで経っても皆が自由平等調和の人間関係になることは絶対にありません。
だからせめても「自分ひとり」が自由平等調和の意識になる実践しかありません。
しかしその実践にも複雑な人間関係が邪魔立てし障害となる事実がこの世にあります。
しかしその実践の難しさを思うのも、その人の意識に原因があることですから、やはりその人個人の意識を変えるしかありません。
だからそれを他力任せの他力願望でいる限りにおいてはそれも「どうすること」も出来ません。
また著名人の著書を読んで感動したり眼のウロコが落ちても、その実践が無ければ「絵に書いた餅」で役立ちません。
また生きているからにはその人間関係の愛情・恩義も必然ですが、それで自由平等調和になることは絶対にありません。
それどころかその人間関係に束縛制限されたり、時には私が正しいとばかりに否定反発されかねません。
しかも一番身近な人間関係ほど実践の邪魔立てや障害になって難儀しますが、それを跳ね除けてまで無理に実践するとその裏が出て自らが困ったことにもなり兼ねません。
それでも、事が完全真理だけに、なにかと無理をしても、その価値が報われることになるかもしれませんが、その為には先ず完全真理の真実・真価を深く学び知り自覚悟りとなり、その確かな自信と自力とその精神力(勇気・決断と実行)と、へこたれずに持続できる力・意思・意識力が無ければ中途半端に終わるやもしれません。
すなわち己の意識を改革変化させるにもその己の意識が問われるわけですから、完全真理の実践もそう容易くはありません。
ところがものは考えようで「どうにでも」変わるものですから、世間の人間関係がどうであれ、身近な人たちの意識がどうであれ、見栄や世間体や自尊心・プライド・価値観を捨て去り、何が無くても「生きて」さえいればそれで十分に思える精神・意識になれば、それまでの実践の無理が無理ではなくなり、いとも簡単な事になります。
それがあらゆる欲を捨ててその欲を二度と持たないことです。
だったら「食って寝て糞をするだけ」のような生活にも馴染めますから、例えホームレスやルンペンの格好になっても平然と平常心で生きていけますし、その暮らしぶりの中に(未知なる)味わい深いさを感じることからして、いま生きている事を十分に味わえます。
また「長く生き続けたい」と欲に思わなければ死さえも普通に思えます。
そして成り行き任せの自然死を望んでいれば、それが病死や事故死や突然死や無縁死や孤独死であっても、何の不安心配も恐れも出ないままに生きていけますから、実際にはどんな死に方になるかは判らないが、しかし生きている限りにおいてはその死に方を実際に味わうことには絶対にありません。
だから生きている限りにおいては大丈夫なのです。
しかしそれが実践できないのであればやはり何らかの欲を持っているからです。
そしてその欲から不平不満や不安心配や恐れを持つことにもなっているのですが、しかし欲を持たないほうが気楽で楽ちんでしかも今まで味わったことがない未知なる味わいまで出来るのですから自分から文句が出るはずもありません。
しかしその文句が出るのであれば、それはまだ欲が残っていたわけですから、その責任は己の意識にあります。
だから問題が出るのも、その問題が消えるのも、その己の意識次第なのです。
それを人様の性にしていれば、それが自らの生き方までが人様の性・影響にも思えますから、(結果的には)自らの意識でいまを生きている事を味わうことが出来ないわけです。
そしてその代替に何かを捜し求める欲の繰り返しにもなっているのです。
そして更に一つより二つ三つと(無いより有るほうがいいからと)欲張ることにもなっているのです。
ところがその反対に何か一つでも欲を捨てれば(あるより無いほうがいいことになり)二つ三つと捨てることが多くなる筈です。
しかしこの事例も完全・絶対ではありません。
また耕栄さんやファバラを信じることで大丈夫と思っていても完全・絶対ではありません。 また耕栄さんが言われ通りに義理・人情・愛情・恩や儀を大切に思って実践している人も完全・絶対ではありません。
同じく信仰宗教の神仏や教祖を信じて祈願している人も完全・絶対ではありません。
そのいずれも完全ではありませんから(絶対ではないから)、この先の結果がどうなっていくかは不確かです。
だから完全・絶対を言えるのは「完全真理」の中にしかありません。