孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

特別な変化刺激のない生活の中で一年に二度三度、時たま自然界の摩訶不思議を見せてくれています。

2012年03月23日 | Weblog
一日二回の肉牛のエサやりのパートと、ブログの書き込みと、一円パチンコと、無料映像の映画・ドラマを観る以外に、此れといった事をしていなくて、ただ食って寝て糞をしているだけのような時間が多くあるような、そんな生活だけに変化刺激や苦楽が殆どないことからして言えば、退屈しているのは事実としても、それが面白なくて寂しくて物足りないようにも思えるかもしれませんが、そのお蔭で人様との人間関係に悩むこともなく悠々自適の独自独歩の自由な生活を味わうことが出来ています。

また世間的には、老後になると「テレビが友達」になり易いのですが、そのテレビが国策の地デジ化によって私方の過疎地ではケーブルテレビ会社との有料受信契約をしなければテレビが見れなくなりましたから、まさしくその国策によって良くも悪くもなったわけですが、私方は悪いほうの「切り捨てられる」側とになった格好になっていますから、それ以来テレビ画面は写りません。

そんな変化刺激のない生活の中で一年に二度三度くらい時たま自然界の「摩訶不思議」を私に「見せて」くれていますから、それが(未知なることを知ったことで)けっこう生きていることの面白さにもつながっています。
ちなみに2年位前の書き込みの「私が住むところは異次元スポットかな」に数々の摩訶不思議を紹介しています。

それと同じく、去年の3月に庭先に置いているバケツの水が分厚く凍りつき、その平面・平坦な中央部分に親指くらいの「氷柱」が立ち上がり、その氷柱の形が楕円形のカップ型になっていて、そのカップの上層部の内部が彫刻したように掘り込まれていて、そこへ水を注ぎ入れることも出来るように見事に凹んでいました。

そして今年の3月には大きな水がめの水が水面より10センチくらいせり上がった様に「薄く」凍りつき、そのせり上がった平らな上層部が今度は水面まで落ち込んで薄く凍っていて、その底辺の平面がこれまた薄くせり上がって上層部でまた平らに凍っているという形が幾つも不規則な方向に並んでいて、そのお互いが不規則に突き合ってせり上がっているような格好になっていました。
ところが直ぐ近くのバケツの水は分厚く凍り付いていました。

それとは別に、車で夜道を帰るときに前方の木立の隙間から対向車のタイトが見えたので数秒後には対向するはずなのに、その一本道から対向するはずの車のライトが消えていたり、また車の窓を閉めているし車内のファンも回っていないのにその車内にそよ風が吹くように私の頬を撫でるように通り過ぎたこともありました。

そんな摩訶不思議を何度も見れるのと併せて、この世で初の終わりとなる完全真理を学び知りそれが自分のものとなっているというその自信とがあって、それが過疎地生活での独自独歩の孤独な歩みの自信にもつながっています。
そして欲張らない、無理をしない、執着しないことからして気楽ですし、パチンコ以外に特別な娯楽がないようでも、元気に明るく暮らしている中で様々な事を味わいそして気付いているというその感覚がありますから、それで十分なわけです。

また世間的な特別が無ければそれに悩むことも困ることもありませんし、また成り行き任せに生きていることの自信と自力からしてその心の安心安全がありますから、いつも平気の平常心で静かに暮らせるのです。