孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

このブログは先に結果があって、その結果からその原因(意識)に気付いたことが多く書かれています。

2012年03月16日 | Weblog
このブログを読まれた方は既にお気付きとは思いますが、私が前もって思い考えそれを目的理想として成したことをあれこれと書いているわけではなくして、また学び知った事をそのままに書いているのでもなくして、あまり欲張ることもなく、あまり無理をすることもなく、あまり執着することもなく、成り行き任せの「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁のお仕組み任せのその<結果>を事例に書いていることです。

だから世間や家族のしがらみから離れたくて(自らの意識が強くて)過疎地暮らしが始まったのではありません。
だから結果的にそのしがらみから離れたことで自らが味わい感じた事を書いているわけです。
またそれ以前の摩訶不思議や想念や完全真理に巡り会えたのも(自らが捜し求めたと言うよりも)偶然とも言える(必然ご縁のお仕組み)結果からです。

その結果が出るにはその原因意識があったわけですが、それがどうやら前世から引き継いだ意識・潜在意識が加わっていたものと、(今の結果からして)今ではそう思えています。

そして実際に世間や妻や子供達から離れたことで(開放されて)気付き感じた事を書いているわけですし、いつの間にやら質素素朴や自己縮小やの形に馴染んだことからも完全真理の理解が早まったわけですし、その素朴に生きる事に自力が大いに役立ったからこそ、その自力の必要性を書くことにもなっているし、快適便利・スイッチポンの生活から離れてその自力で生きている事の面白さを味わえたからこそ、それら事例を多く書くことにもなっているのです。

また過去に、その時代の先端となる最新式の釣り道具やまた潜水道具やまた電子機器やビデオ撮影やに先んじて取り組んだ自己拡大があるだけに、それらとは比べ物にならないような単純簡単で、変化刺激の自己満足や生産性の低い(収入の低い)野良作業や土木工事の手伝いや肉牛の世話のパートを味わうことからして、今まで味わい知らなかった(未知の)ことを実際に味わったことからして、その素朴・単純の良さにも気付いたのです。

だから見栄・世間体・格好から特別な仕事を無理して望むよりも、自力自信の成り行きの必然ご縁で巡り会った自分に見合った仕事のほうが楽ちんであり、豊かさや見栄や世間体が無ければそれで十分に生きていることの価値を味わえることを書いているのです。

だからこのブログは先に結果があって、その結果からその原因(意識)に気付いたことが多いわけです。
またその中に未だ現実となっていない先々の予測・予見・預言めいたことを書いていても(私の中で不確かなことはいっさい書いていません)、それを事実とするだけの真実・真理・論理・史実を学び知り自覚確信しているからです。

だから私の中には「信じるか否か」はありません。
だから(深く読めば)必ず結果・答えが出る事を書いています。
また奇跡を成す神がかり的な人を妄信することや憧れ期待することにもなりませんから、それらの人から時折出てくる不完全な思い・思い込みに洗脳されることはまずありません。

ところが残念なことに(過疎地での)(世間離れした)私だけの独自独歩の歩みの中のことですから、皆さんに通じることは難しいとも思っていますし、読まれた人に感動を与えるような文書でもないし、また自己縮小を意識している人でなければ「ぬかに釘」の説明になるか、または違和感やで否定反発されることにもなると思っています。

そこで私が来世で望んでいる「南海の孤島」やの事例が出ることにもなっているのですが、それも過疎地で生活しているだけにその人間関係が少ないことからして、その南海の孤島やジャングルの奥地のその日暮の生活で味わえるであろう思うその人間関係に憧れるような意識にもなっています。

すなわち昔ほどにあったであろう、皆が皆それぞれの自力・特徴・個性・役割を出し合いながら協力し合って生活する形があれば、暇で退屈する時間もなく、その日その日を生きるために皆と一緒に過ごすという様な形になって、そこで私の自力も役立つし、また他の人の自力を学び知り真似ることにもなりながら、その共同・協力・協調・調和を皆と一緒になって味わえると思っているからです。

だからせめても、欲張らない無理しない執着しないで、自力を多く使い素朴に生きることに馴染める人たちが集まる形が身近にあれば、今の独自独歩の自己縮小に向けた実践がその人の集まる形の調和に結び付き役立つからです。
しかしこの世では無理なようですから来世に託すしかないとも書いているわけです。