孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「きずな・絆」「たづな・手綱」による束縛制限支配・否定反発排除と「鵜飼い」の良いとこ取り意識。

2012年03月14日 | Weblog
私は自分に出来ることに集中することがあっても執着心がそんなになかっただけに、その集中していたことに自分の限界がくるとあまり無理をしないでそのままにほっときますから、それ以上に進化発展することはありませんでした。
そしてそれが面白くなくなると興味が失せてやる気も落ちますから、その時点から既に次なる新たな事に興味を持って一から始めるというその繰り返しばかりしてきましたから、色んな事を広く浅く経験することにもなりましたが、それが今の私につながっています。

その執着しない性格から、我が子だから!孫だから!妻だから!また我が子・孫・妻でなければ!というような強い特別な思いはなくて、私の身近にいる子供たちであり、(妻の場合は)互いに話し合え接し触れ合える相手・女性として見ているような感覚でした。
だから家族の絆で結ばれているとか、その信頼関係でいるとかの意識・思いはありません。
・・・それがどうやら、誰もが持っている不信感に(潜在意識で)気付いていたものと思われます。

それでも(私自身が喜ぶために)私の身近に居る妻や子供が喜ぶことに私の自力を大いに出していましたし、また人様が嫌がっているのを見るのが心苦しかっただけに(苦手でしたから)、その嫌がる事を無理に押し付け強要することはありませんでしたから、概ね各々の自由・好き勝手に任せる成り行き任せなところもありますので、(今現在も同様でして)だから必然ご縁で来られた人達やその子供にも(特に分け隔てる意識はなく)同等な思い気持ちで接することが出来ています。

その私の自力によって人様が喜んだり楽しんでいると、その様子を見ているだけでも私は十分でしたから、必然ご縁で私の身近にいる人なら誰でもかまわないのです。
しかしその身近にいる人の不機嫌な様子を見れば私まで嫌な気分になりますから、そのことに私が深く関わる事なく(重大なことで無ければ)その場を静かに離れていきました。

だから私には家族に対する強い思い・結びつき・絆はありません。
そして皆が自由に振舞えることを意識していますから、私から余計な手出しも口出しも無理押しもしません。

ところで震災やの有事が起こると報道などで「きずな・絆」がよく言われるようになりますが、それが愛の絆や夫婦親子家族の絆や地元地域社会の絆とかになりますが、そのイメージからすると連携をつなげる、相互の関係を深める、連携・結束・関係を強めるとか結託・結束し合うとか、結びを強固にする、また絆を築きその絆を守ることにもなりますが、そうなると絆で結ばれた同士の比較差別意識(身分・立場や損得利害関係)が出てきたり、その絆に思うことで何かと束縛制限されて各々の自由が損ねられますし、また比較差別・格差損得利害関係の不満不足に強い執着が出てくるとその絆意識がプツンと切れてその関係意識が破綻することにもなり、時には双方が非難し合い憎しみ合うことにもなります。
すなわち(あったらあったで)その絆が良いことにも悪いことにも変わるのです。

それを報道やの感慨深いコメントに踊らされてから絆を築いても、誰もが持っている不信感を隠しての(信頼の結びつきの絆に思わせる)偽善の絆だけに、その築いた絆も長くは持たずにやがて崩れるでしょう。

ところで「たづな・手綱」を握るとか締めるとか強めるとかの言葉もあります。
それは牛や馬が暴れたり暴走しないように手綱をしっかり持ってうまくコントロール・操作して<操る>ことにあります。
そうなると「絆」と同じように自由を束縛制限支配される形になります。

それが(その関係が)いやになって逃げ出そうにも、既に手綱をしっかり握られていますから、そう簡単にはいきません。
そうなるとあとはその手綱を断ち切って逃げるしかありませんが、それを執拗に追いかけてきてその責任を問い詰める人もいます。
だから手綱を握られないためにも、いつも自由にしていなければなりません。

だから私は人様との必然ご縁があっても、その「絆」を深めることも「手綱」を握ることにもなりません。
それは私が自由を味わっているから、その自由を誰もが味わって欲しいからです。

ところが「絆」意識によって結び付くとそれが絡んで身動きがままならなくなり自由意志・意識が損なわれます。
また絆が築かれるとその見えない意識の壁が築かれて、他の人の意識を遮断・否定反発することにもなります。
またその壁で見通しが悪くなり(不透明になり)、その壁の中で何かを企んでいるのではと外部者が不信感を募らせます。
また絆が強固頑固になるほどにその裏では守り意識や排他的な思い(不信感や排除意識)が強まることにもなります。
また絆が寄り集まるとそれを(その集合意識を)手綱にして操ることも出来ます。

要するに誰もが皆持っている不信感を隠し持っているのに、その不信感を見透かされないようにうまく隠し続けるために、互いが如何にも信頼で結び付いているように見せ掛けるために「絆」意識を持ち出しているようなものです。
だから不信感がなければ「絆」を持ち出す必要もなくなります。
何故ならば宇宙・万物・人類は元から「ひとつ」に<つながって>いるからです。

とにかく、この世の形は個人の自由を束縛制限して支配を強めるためにあるようなものです。
そして上に立つものが「鵜飼い」のように操ってその「良いとこ取り」をしているようなものです。
またその自由になられると困る形がこの世にあるから、そこで常識や伝統風習や道徳で縛り付けたりしているのですが、それは如何にも自由に思わせておいて(泳がせて於いて)その裏では何かと束縛制限・否定反発・排除する形も併せ持っているのです。

だからこの世は「不完全」な「闇」意識に覆われているといわれるわけです。