孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全意識では無くても、その不完全意識を多く出さないままに過ごすことが出来るのが自己縮小です。

2012年03月31日 | Weblog
私が完全真理の実践意識でずーッと続けることが出来るのは、完全真理だけに絶対にその結果が出続けるからです。
そしてそれが不完全なことであれば絶対に解決する事になりませんから、普通ならそれを引きずって思い続ける執着にもなりやすのですが、(私には)その執着している事に気付けるだけの意識にもなっています。
また完全真理を知っている限りに於いては、それら不完全なことに迷い悩み思考錯誤や葛藤することにはなりません。
だからこんなに「アリガタイ」ことは他には絶対ありません。

しかも世間的な自己拡大をしているときは無理もあり、苦労もするし、思い通りに事が運ばずにイライラすることもあるし、その精神的負担から身近な人を巻き込んでみたり、またその途中結果が出るまでの苦労が多いし、その途中結果に自己満足することがあっても、それで終わったわけではないことからして、今まで以上の無理がまた出てくるし気苦労するし生活やの金銭的負担も増えるし、そんな甲斐あっての自己満足の途中結果が出ても、またそれを守り闘うことにもなって更に苦労や他力依存の経済的負担が増えたりもします。
ところがそこで進む事を止まれば、此れまでの事柄が忘れられたも同然になり(過去に葬られたも同然になり)、此れまでの実績・成果のままに維持し推移する事にはなりません。 
だから自己拡大を続けることにもなるのです。

それが仕事でも地域社会や家族やの人間関係であっても同じです。
何故なら皆が自分さえ良ければの「欲張り」だからです。
だから自己拡大を続けていなければ(相手からも自分からも)不平不満ばかりが出続けて世間も仕事も家族家庭も味気ないことになり、それが次第に虚しい人生・生活に思えるようになっていくのです。
しかもその中に会社倒産・リストラ・停職・賃金カット、また転職・職探し、また別居・離別・離婚・熟年離婚、また無理がたたっての通院生活・要介護や寝たきり、またうつ症状や痴呆症になる可能性もあります。

ところが完全真理が言うところの「自己縮小」なら自己拡大の逆ですから特別な能力も技術も相当な努力もいりませんし、何ら無理する必要もなくなり、また執着しないように平常心で生活していればいいわけですから、取り立てての難儀・困難・有事もなくなりますから、その自己縮小の「やる気」さえあれば誰にでも出来ることですし、無理なくずーッと続けることも出来るわけです。

そして実際に実践していれば先程に書いたように、その実践に見合っただけの答えが必ず出てきます。
その答えが自らの実践意識が原因の結果ですから、その全てが自覚確信納得できますから、前項のような、望んだことではないが「やむをえない事情の結果」による自己縮小とはまったく違いますから、その実践の結果の有難さが味わえますし、それが自信確信になっても「虚しい」ことには決してなりません。

その自己縮小の実践に欠かせないのが見栄や世間体・プライドやの欲を捨てることです。
そして不完全な人間関係を気にしないことです。
そこで親だから夫婦だから我が子だからと言うような特別な思いを捨てて、身近な人(他人)と一緒に過ごしている感覚になれば必然ご縁任せでそれ以上の事を無理に特別にせずに済むし、またその身近な他人がしてくれたことなら喜び感謝にもなるわけです。
また子育ても近所の子供と接し触れ合っているような感覚のほうが、その親子共々が拘り執着しないで上手い具合にいくのです。

そして容易く他力を使わないで可能な限り持ち前の自力を使うことです。
その自力を使うことが多くなることで、その分だけ物事の味わいが深く感じる事になります。
そして自力を多く使うことからして自分がいま生きていることの実感・感触感覚も味わえます。
また同じ自力であっても、自己拡大のときの複雑面倒で細心の注意力や集中力や根性や忍耐力やが必要な事とは反対の(特別な自力を必要としない)簡単・素朴な中にある、その隠れた未知なる・知らなかったことが味わえるわけです。

そしてその自己拡大に使った自力とその反対の自己縮小しての自力との、その両面・両方の自力の結果を自らが味わい知ることにもなるわけです。
そして自己拡大で使った自力は自己満足・自惚れ・見栄やプライドになるが、自己縮小してから使う自力は当たり前の自力を多く使うことからして、その普通に生きていることがしっかり味わえるわけです。

ところが少し困った事にあるのが、自分だけの事なら拘り執着しなくても済むのだが、接し触れ合う相手が執着していることがあってそれに巻き込まれることがあることです。
例えば私に執着が無いことが相手にとって都合が良いときはそれを喜び受け止めて(認めて)くれるが、それが相手の都合の悪い事になると「何とかしなさい」と責め立てられて、それが出来なければ無責任・無能なダメ男・夫・親に思われることになります。

またそれをほっとけばほっとくほどにその不満が高まりそれがずーッと続くことにもなり(執着されて)、しかもそれが妬み恨みにもなって仇討ち仕返し制裁・成敗されることにもなっていきます。
それが国家社会や会社・仕事職場であっても、また地域社会や親戚家族であっても同じです。
だから欲が無くなっても、その見栄や世間体を気にしない意識も必要になるのです。

もっとはっきり言えば、この世は執着で始まり終わることになっているようなものだから、その人間関係もまったく同じです。
その「どうしようもない」ことに意識が縛られ執着するよりも、また気兼ね遠慮するよりも、自分独りのことでも十分な精神世界・意識の世界・完全真理に関わっているほうが自分の為にもなり、それが人の為にもなるのです。

その世間によくある、良い事を成すことに執着し、悪い事は徹底的に完璧に否定反発排除したがる、その思いの執着心がある限り「どうしようも」ないわけです。
だからせめても執着しない者同士が接し触れ合う事になれば、その成り行きの必然ご縁のままに(引っ付こうが離れようが)(何事かが有っても無くても)(付かず離れずの意識で)その時々の今を共に過ごすことも出来るわけです。

そして完全意識では無くても、その不完全意識を多く出さないままに過ごすことが出来るのです。

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