孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

何で、何でなの

2010年12月20日 | Weblog
完全真理は実践して何ぼの実践真理ですから、宗教のように神仏に祈ることも願うこともありません、ただ実践するだけです。
また信じるか否かの選択もありません。
意識で生きている人間の役割使命・事実・真実・本物を知るための「実践」真理です。

私は人と比べればぼんくら頭で遊ぶことだけは一人前でしたが、それだけに学歴がお粗末で性格も引っ込み思案だったので対人関係や社交性・社会性も欠けていますから、此れまでの色んな遊び友達や仕事関係などのご縁が未だに続いている限られた人達を除けば、未だに社交性・社会的な存在感が薄い存在なのは今も事実です。
しかも映画や漫画やテレビを見ても新聞雑誌は無論のこと書店には無縁だっただけに一般的社会教養はあまりありませんでしたが、ただ遊ぶことだけは参考文献が無くても、見よう見まねと自前の自力で創意工夫していました。

そんな私だから、此れまでの精神世界・見えない世界・摩訶不思議全般も、皆様から寄せられた端的な情報だけで十分でしたから、仲間から親切にも参考文献や専門書が送られてきても、目次の文言や太字で書かれた見出しを読むだけでしたし、知りたがる自らの意思でわざわざ講演会に出かけることはありませんでした。
だからすべて端的な情報の寄せ集め積み重ねから判断しての成り行き任せでやってきました。

そんな私が「良い悪い」で判断しなければ比較競争・差別することも無くなり・・・云々の二行足らずの文言に納得したことからもっと知りたがることになり、そして今があるのですが・・・(私としては)誰でもが完全真理の「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で分離比較判断しなければ比較競争も差別も無くなり自由平等平和になる事を素直に納得理解できて、大勢の人が完全真理を学び知りそれを実践する人がどんどん増えると確信していました。

ところがです・・・既存の宗教やそれに類した形のものや新たな精神世界を説く団体に所属していたりする人とのご縁がありましたが、その人達は聡明で能力的にも恵まれていてそれを活かしていたり、また新たな事を成すために積極的に頑張っている人や、今やっている事に多くの人達が集まり囲まれている人望があったりして、とにかく能力もさることながら人付合いが上手で親切で人から好感を持たれ信頼される立場の人達が多くいました。
しかし何故か完全真理には理解を示さずにご縁が終わったり、中途半端に縁が終わったり、それらの人が関わっている宗教や他の真理や思想哲学・学術文学・教養的な類や差別問題などの取り組みから離れる事無く、今もそこで頑張っているようなのですが・・・私にしたら完全意識の完全真理があるのに「何で」今更そんな不完全なことが大事に思えるのと、なるわけですが、私としては(去るものは追わずで)こればかりはどうしようもありませんでした。

それと此れまでの9年間に山田耕栄さんの地元講演会を3回ほど参加しましたが、毎回新人が殆どいなくてベテランや追っかけ集団が目立つし、前回までリーダー的役割をしていた人までが離脱したりしているのですから、「何で」そうなるのと、改めて完全真理の普及進展の難しさを実感しています。

その原因にあると思われるのが、世渡りが上手な人で人望を集めていればそれを大事に守り続けるほうが自分に都合が良いからなのか、いま成している事に意識が支配されていて完全真理を意識できないのか、とにかく完全真理の本質を知らないままに大したことは無いと勝手に決め付けてやり過ごす人達や、耕栄さんの完全真理に関わっていても、概ね知ったかぶりで(聞くだけ言うだけで)十分通用するところもあることからして・・・個人意識丸出しの未熟さを痛感している私だけに「何で」完全真理の実践で事実・真実・本質を学び知ろうとしないのか不思議なくらいです。

また誰もが個人意識を持っているのは事実ですから、日々忙しく動いていれば良い悪いで判断したことも、不平不満に思ったことも、自己満足・自己主張したこともあるはずですから、実践意識・真剣さを持っていれば気付くことはそんなに難しいことではないと思います。
だから実践は「気付き」にあると私は確信しています。

そこで、実践する前に気付くことは理論・知識で気付いた事になると思っています。
それも重要なことですが、それだけでは自覚悟りには及ばないようです。
ただ過去の記憶が蘇って真理と照らし合わせて、なるほどと自覚納得できることはたくさんあります。
しかしそれも記憶の中のことですから悟りとは言えないようです。
ところが思ってもいなかった必然ご縁のお仕組みによって知らない間に(あるがままの自然体で)成るようになっていたことに気付き納得できれば、その事実が真実になり本物になったことであれば気付・自覚・納得・自信・悟りになったと思います。

だから無理をして気付いたことは自己満足の気付きになります。
それも必要ですが、また繰り返し無理をしたがります。
それが原因で不和・不調和が出てきて職場や恋人や夫婦・家族などの人間関係に摩擦混乱波乱が起きる原因にもなります。
そこで守り意識が働いて完全真理の本質を見極めないままに止まったり遠ざかることにもなります。

★完全真理にせっかくのご縁があったのに、「何で」簡単に見過ごすのでしょうか、「何で」関心を持てないのでしょうか、また「何で」途中であきらめたりするのでしょうか・・・その多くは、やはり今持っているものを失いたくない人が多いようです。
★それが「差」なのです。
せっかく努力して得た「差」を失いたく無いのです。

いずれにしろ不完全なこの世人間関係でいても「差」を持っていれば自己満足・自己主張できるから、またはプライドが維持できるから、または寄り集まってくる人たちを前にして自分がリーダになれるから、または便利よく都合よく指図したり操作できるからなの、または差を持った同じ仲間意識で頑張っていられたり、目立つ存在で偉そうにしていられるからなの、それとも今の立場位置なら良いとこ取りがたくさん出来るからなの、財産や家柄や人望があったり、人より一つ上の役職を持っているからなの・・・など等まだたくさんありますが、それらを失いたくないし、すでに築いているものがあるのに今更新たなことにゼロからスタートするのは何だからと敬遠するのか・・・とにかく実行性・実践がともなわないのも完全真理があまりにも完全すぎて、他の真理や宗教のように矛盾はそのままにしておいて、都合によっては妥協したり言い訳正当化することが完全真理では通用しないからかもしれません。

すなわち、すべて自分の都合を優先したいのが個人意識なのですから、相反する完全真理は(心の奥底では)不都合な真理に思われるているのかもしれません。
だから誰もが直ぐに理解できる事柄であるのに、完全真理をあまり知らなかったことにしてみたり、または比較競争・差別意識を隠して仲間内と交流することを楽しみにしていたり、または完全真理を自己流に解釈して矛盾があることに気付かなかったりして、そんな自分を偽ってまで、言い訳正当化してまで、(何とかして)今まで通りの生き方を守っていたいのかもしれません。
そして今も真理を学び合う仲間内の中でも、完全真理を宗教のように信じているだけで(差を持ったままにいるのに)私は大丈夫と思っていたりすると、やはり気付きが起こる実践が後回しになっている可能性が大いにあります。

ところがそんな人達であっても・・・来るものは拒まず去るものは追わずで、来るからには何とかして「浮かび上がって」こられるように配慮・思いやっているのが山田耕栄さんであり、それが一般市場に出回っているファバラ製品なのかもしれませんと、私は思っています。
・・・だから何かご意見ご感想があれば書き込んでください、参考にさせていただきます。