孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

良い悪いの裏表の事実・真実を深く知ることでその裏表の矛盾が消えて良い悪いの差が無くなります。

2010年12月17日 | Weblog
私たち個人意識の人間は「良い悪い」で判断していますから、良いときも悪いときもあります。
また良いと思っていたことが後で悪い事に思えるようになったり、悪いと思っていたことが後で良い事に思えるようになったりして不確かで矛盾があります。
その不確かな矛盾の中で生きているのが私たちですから「絶対」や「完全」がありません。
だから絶対にとか完全とか言っていたことでさえ、後に間違いであったり、矛盾が出てきて不完全だったことがわかったりしています。
・・・それがこの世ですが、詳しいことは省略します。

私は戦中生まれの戦後育ちですから食糧不足・物不足・人材不足を経験体験しています。
そして昭和の高度成長期の物質経済主義・生産拡大と消費拡大も味わってきました。
そして「スイッチ・ポン」の便利で快適で時間短縮の素早さを大いに味わってきました。
すなわち昔と比べれば良い時代になったと言われたのです。
ところが公害問題で環境がどんどん悪化してきました。
その国内公害問題が一段落すると今度は世界中の排気ガスCO2が騒がれています。
すなわち「良いとこ取り」してきた弊害副作用が出続けていて、悪い事に今も人類地球を脅かし続けているのです。

・・・ここで本文・本筋を書く事になりますが・・・
私が中学生の頃遊びがてらに山へ行き枯れ木や落ち葉を集めて背負って帰りお風呂の燃料にしていました。
その時親父が「お前が山から持って帰った木で風呂を沸かしてくれているから良く温まる」と言っていたことが記憶にあることから、田舎暮らしで一番してみたかったことが「薪で風呂を沸かす」ことでした。
だから毎日のように薪で風呂を沸かしていますが、その薪で風呂を沸かすと体の芯まで温まるのは確かですし、薪の燃え残りが湯冷めを補ってくれるから、水を追加することはあっても追い炊きすることはまずありません。

その焚き木・薪作りもそう簡単ではありません。
近くの山へ行って杉やヒノキを間伐しますが、切りたての生木は非常に重たく、それを人力で引っ張って自宅まで運び、薪の長さに丸太切りし、そして薪割して、雨露が掛からないところへ運んで、一つ一つ積み重ねて、しばらく乾燥させます。
また風呂を沸かすにも薪を運んできたり、湧き上がるまで火が消えないように見張りながら次々と焚き木を入れるなっどの手間がかかります・・・その薪が燃える炎(揺らめく炎)と一定の燃え方をするガスや熱が赤く見える電気の炎とはまた味わいが違います。

だからスイッチ一つで風呂には入れていた頃と比べれば相当な手間がかかっています。
だからそれを面倒で都合の悪い事に思うと過去の快適便利な生活の良さが身にしみて判ります。
ところがまた(大したことでも無いけれども)自らが手間をかけて自力でやり遂げて入る風呂とスイッチポンで簡単に入る風呂とは何か意識的に違うのです。
その違いはどうやら原因から結果までの全てを味わうのと、簡単に(良いとこ取りして)結果だけを味わうのとの違いだと思います。

だから面倒で都合の悪いことでも、それを面倒くさがらずに奥深く味わっているうちに、今まで悪いと思っていたことが違ってきて、それをしいて言えば、悪かったことが良かったことに思えるようになるのです。
すなわち過去の思いが消えて(裏が消えて)今の事実の「表」だけを味わっていることになります。
それを言い換えれば、元々から良いも悪いもない事実・真実・本物を味わっている事になるようです。
だから過去のスイッチポンも今の手間を掛けるのも、その違いがあっても良い悪いの差は無かったのです。

そして、この先で私が病気になっても、その病気を賞味・味わう事にしています。
そうすれば健康だったときの数々のありがたさに気付き、それを実感で自覚することにもなり、また病気になったことで今までとは違う新たな事に気付いたり、または今まで知らなかった事を始めて知ることになるような、そんな楽しみみたいなものが私の中にあります。
だから病気を後悔する事無く、病気になった事を味わって今後の生活・生き方に活かすことが出来れば、過去の病気になったことが結果的に良かったことになり、その病気の裏と表の両方・事実を味わったことになります。

だから「死」もまったく同じ思いを持っています。
生まれた時のことを本人が知るすべはありませんでしたが、死ぬことであれば、自らの死が如何なるものかを知る二度とないチャンスになると思っています。
また死ぬ直前まで、例え苦しんでいても、今を生きている事を実感で味わえると思っています。
そうなれば死を怖がることも、また死ぬまで苦しんでいても、その死を後悔することも、また生に対する執着を持たずにして、少しでも安らかに死ぬ時を「待つ」ことが出来そうです・・・先のことは不確かですから絶対とは言えませんが・・・

だから皆さんも(良い悪いに囚われずに)此れから起こる有事・事実・結果に(後悔・未練)執着せずに、それを素直に味わえばいいのです。 必然のご縁あって恋愛ならその恋愛を、結婚ならその結婚を、不倫ならその不倫を、離婚ならその離婚を、離別ならその離別を、リストラ・定年・倒産破産・アルバイト・フリーター・ホームレスならそれを素直に味わえばいいのです。
・・・見栄・世間体・常識・道徳・伝統風習に関係なく、必然のご縁があったのなら、それを素直に味わえばいいのです。
・・・欲張る事無く、無理する事無く、成り行き任せでそれらを十分に味わえばいいのです。

この世で名を残すことでも、大事を成すことでも、家族や子孫繁栄を望むことでも無かったのです。
生から死までの過程を必然ご縁のお仕組みに任せて「あるがまま」に生きて多くの矛盾・裏表を味わい知ればいいのです。
・・・しかし未練後悔執着があれば、それは味わうことではなくて抱え込む事になります。

そして現れ出た結果・事実に未練や後悔や執着することがなければ、それらを味わっただけで終わり過去になるのです。
そして新たな必然のご縁から始まれば過去に止まる事無くして、その分だけまた違ったことを多く学び知り得る事にもなることから、やがてこの世の裏表を深く知ることになり→それは裏表の両方の事実・真実を深く知ることから→更にその裏表の矛盾が次第に消えて無くなり→その矛盾が消えれば良い悪いの差が消えて無くなりますから→その差が無ければ良いと悪いで判断する必要が無くなっていきます。

そうなれば街中の便利な生活と田舎の不便な生活の違いはあっても差がありません。
金持ちと貧乏の違いがあっても差はありません。
病気と健康の違いがあっても差はありません。
生誕と死亡の違いがあっても差はありません(始まりなき終わりなき永遠の命・意識ですから)。
違いがあっても差が無ければ不平不満も自己満足も自己主張もプライドも出てきません。
違いがあっても差が無ければ平等自由の調和の意識で生きることが出来ます。

違いがあっても差が無ければ欲を出さずに必然のご縁のお仕組みで与えられ得るまで待つことが出来ます。
違いがあっても差が無ければ裏を見ずに表の事実だけを見て「あるがまま」に生きることが出来るようになります。

その為にも、何よりも日常生活の中で知らない間に「良いとこ取り」している事に気付かなければ、また自分の思い・理想目的を成す事を望んでいれば、完全真理を確かに実践しているとは言い切れません。