孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

進化拡大している宇宙ですから、同じ人類もその進化を終えて新しい命・意識として進化を重ねています。

2010年12月15日 | Weblog
元からある命・意識が形をなして見えているのが、「始まりなき終わりなき」永遠に進化拡大している宇宙そのものです。
だからニワトリが先でも卵が先でもありません、その形を成す以前から(元から命・意識)実在していたのです。

そして宇宙が進化拡大している最中に新たな形あるものが誕生したり、また進化拡大し続けて終りを迎える形あるものがありますが、形が消えて見えなくなってもその命・意識はまた新たな形となって生まれ変わっています。
それを地球に例えれば、地球が誕生して水や空気が新たに生まれ、そして生物が生まれ、その生物が進化拡大して恐竜時代を築きそして終り、そしてまた違った生物が現れ消えながら進化拡大し、その中から人間の祖先が誕生し進化拡大しながら現在の人間がいま実在しているのです。

だから進化拡大し続けた今の人間も必ず滅びる時が来て、そしてまた新たな命・意識あるものに生まれ変わりますが、今はその途中・終末に実在している人間の命・意識(体)が私たちです。
だからその事を昔から生まれ変わりの「転生」といわれているように、原始人以前からも、大昔の神代の時代・アダムやイブの頃からも、また縄文や弥生時代などと色んな時代を進化拡大しながら同じ命・意識を引き継いで現在に至っているのです。
だから皆が同じ神であり同じ人間であり同じ意識・命ですから、その姿形が違っていても差はありません。

ところがその「差」を意識するようになったのが、「良い悪い」で分離比較するようになった神代の時代・アダムやイブの頃にさかのぼると私は思っています。
しかしその「良い悪い」で判断している人間を終わらして新たな意識・命の時代に導くために、(進化拡大する宇宙の流れの中の)宇宙の法則・必然・お仕組みから釈迦やイエスらが現れた時があるように、現在ではそれらより完全に進化した「完全真理」が山田耕栄さんによって説かれています。

そして「完全」を説いていますから、成るものは成って、成らないものは成らないままに終りを迎えます。
それが良い悪いで判断しない「完全意識」なのか、それとも此れまで通りの良い悪いの矛盾で生きる「不完全」意識なのかで、その進化の道筋が概ね決るようです。
これらの事は古い過去のことであったり先々のことですから完全ではありません、だから「信じるか否か」に分かれますが、完全真理は完全ですから信じるか否かではなくて、「ひとつ」の結果・答え・事実を完全に教えてくれています。
・・・だから自信ありげに・・・こうして私の中にあるものをブログを書いているわけです。

だから「欲」張らなくてもいいですよ、そんなに無理をしなくてもいいですよ、必然ご縁の成り行き任せに生きていても十分人間らしく生きていけますよ、その為には臭い・汚い・暗い・危ない・きつい等と毛嫌いしないで、また不便だから、面倒くさいから、また信じられないからと言わないで、すなわち何事も否定反発排除しないで、それら(知らない裏側)を十分に味わっていればその内に本物・真実・事実が分かりますよと書いています。

そして出来れば喜怒哀楽や生老病死などを感情的に囚われないようにして、見栄や世間体や常識や伝統風習や道徳に縛られないようにして、また人間関係においても束縛制限支配関係にならないように自由と平等を尊重すれば自らも自由平等になりますよと書いています。

それらを「確かなもの」本物にするには・・・先ず学び知る実践から始まり、それが自信自覚・悟り・英知に至るまでの実践が欠かせませんよとも書いています。
そうしている内に「良いとこ取り」していることが減ることで不平不満や自己満足が減っている事に気付けば、知らない間に本物に少しずつ近づいていることになります。
それが本物の実践です。
すなわち「意識はしているけれど、意識していない」「実践しているが、実践していない」・・・過去にご縁があった「明暗流」尺八の家元の「吹け、吹くな、鳴らせ、鳴らすな」の自然体がいいようです。

それには完全真理を信じるか否かではなくて、自分のものとして自信・自覚を持って真剣に接し触れ合っていれば、実践の思いを先に意識していなくても日々日常生活の中で知らない間に気付き、やがてそれが悟り・英知になるのです。