孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

公平・平等で自由に使える一日24時間ですが、「意識」によって同じ時間の味わいが違ってきます。

2010年12月05日 | Weblog
自然界は元々皆のものでしたが、良いとこ取りする人が現れ、それを権利化して、自分のものにして、他を自由に寄せ付ける事を排除するようになりました。
また水が流れる河川や海まで境界線を引き自由になりません。
しかも上流でせき止めて良いとこ取りすれば下流が水不足になったりして困ったことになるし、上流で廃棄物を捨てれば下流ほど困った事になりますが、その原因は皆のものではなくて我々のだと思う良いとこ取り・横取り意識・個人意識にあります。

また魚類などの海産物を日々必要なだけ捕っていた住民が大型船団に根こそぎ良いとこ取りされて荒れ果て、日々の漁が激減している事例も数々あります。
そして河川の汚れが海岸や国境を越えてまでも影響しているように、空気の汚れも同じく国境を越えて他国を困らせています。

それでは皆に同じの「時間」はどうでしょうか?
時間そのものは皆に公平・平等であり自由に使えることからして、誰かが人様の時間を束縛制限支配できても、完全な時間そのものを独占支配することは出来ませんから、平等で自由であり、完全で規則正しく動いていますから、それが原因で良いや悪いの矛盾が出てくることはありません。

ところが時間の使い方であれば、皆それぞれの使い方によって、良いときや悪いときに思えたり、長かったり短かったり思えることがあれば、その時間の使い方に矛盾が出てきますから、良いと悪いがある矛盾の不完全な時間が頭の中にあることになります。
・・・同じ時間なのに頭の中に良い時間と悪い時間があることになります。
そうなるとどうしても「良いとこ取り」したがるのが個人意識の人間ですから、能率効率・便宜性を高めて時間の節約・短縮すればそれが時間の有効利用の良いことに思えることから、その時間の良いとこ取りが正しいことのように思え意識するようにもなります。

だから24時間をフル回転させて事を成すことが多いほど自己満足が増えます。
そして同じ24時間の使い方に人との比較競争の「差」が生まれ、それが差別意識や特別意識を持つことになっています。
だから同じ24時間を使うにしても、生産性の高い都会に憧れ、生産性の低い田舎を敬遠・逃げ出したくなるのでしょう。
すなわち自己満足の多いほうを選択し、自己満足が少ないほうを敬遠したり忌み嫌ったりしているのです。
しかもそれによって仕事の選択・生き方まで狭められているのですから、自分で自分の首を絞めているようなものです。

ところが(私が)生産性の高い街中から離れて生産性がまったく少ない過疎地で暮らし始めてまず一番に、(不完全な人間関係を知る以前に)生産性の低い生き方が如何に自由で気楽かを気づき知り、また老人ばかりの過疎地だけに対比する比較競争やプライドもあまり必要としなくなりました。
そして街中では見栄や世間体や伝統風習や道徳に縛られることや、対比する競争意識やプライドなどの重たい荷物を背負い続けていたことや、不平不満が正しいことのように平然と言う人がいればその人間関係に巻き込まれないように背をかがめて低い態度で接しなくても済むなど、人のことを気にせずに「のびのびと暮らせる」ことに満足した次第です。

だから過去のおいて生産性が高くて人様に誇れるようなことばかり追い求めていたときにはまったく気付かなかった、生産性の低い生き方に人間本来の生き方を見つけた感じがしたのです。
そして山暮らしの道先案内役をしてくれた娘から今度は山田耕栄さんの完全真理を道先案内されて、そこで今の私の生き方に自分なりの自信が持てたのは確かです。

そして何度も書いているように街中で思うがままに生きているときに毛嫌い喰わず嫌いしていた生産性の低い雑用や臭くて汚いと思えていた仕事にいつの間にやら関わるようになり、その臭くて汚いと思っていた牛のエサやりのバイト・下手間仕事に今は十分満足していますから、(過去も今も同じ24時間の一日を)以前とはまったく違った意識で日々をつつがなく過ごしている次第です。

すなわち同じ24時間の一日でも、己にひとつしかない「意識」次第でどうにでも変わるのです。
そして大きな満足が多いほどそれに意識が使われることから(時間が使われるから)他の事を意識する時間が少なくなります。
だから直ぐ目の前の身近なところの満足がたくさんあることにも気付けなかったのです。

ところが同じ24時間を自然の中でゆっくり味わっていると意識が開放され余裕が出てくることから、今まで気にもしなかったことに気付きが起きたりして、いつの間にやらお金や時間を掛けないで得られる満足や、理想や目的としていなかった思いもよらないことで与えられる満足や、今まで敬遠していたり見逃していたことを実際にやっているうちに満足が得られている事にも気付いたのです。

その反対にあれもしたい此れもしたいと思ってやった事やお金を掛けたことの殆どが自己満足で終わっただけに、結局は興ざめして長続きしなかったり、無理をしてまですることではない事に気付いたりして、結局はお金と時間を掛けたその残骸や足跡が残っているだけであまり用を成していません。
だから過去の街中で暮らしていることに限らずとも、何かと欲張って捜し求めて得た自己満足の時間や思い通りにならなかった不平不満の時間があっただけに、今では何でそんなことにお金や時間を無駄に使っていたのかと改め気付き学び知ったわけです。

そしてお金も時間も掛けないで与えられて得られる満足が多いほどその反対の不平不満に思う時間が減っていくのですから、それだけでもありがたい事に思えるように意識が変わっていくのです。
そしてその思い・意識があるから、日々の中の暇で退屈な時間を真理の実践に活かすことになり、どうでもいい世間的なことに意識を使う時間が減っていくのです。 だから更に成り行き任せの呑気な生き方が板につくのです。

そして限られた小数のご縁がある人達と時々関わっていることがあると、それが短い時間の会話であれ、また大したことでも無いのに(至福に近い感じで)何だか楽しい時間になっているのです。
また生活していく中の必然でその時々のご縁があった人であれば(私に対して不服を持っていなければ)誰が来られてもその時間を笑顔微笑で接することが多くなってきました。
またお会いすることで私が楽しい思いになるからと、自分から用も無いのに出向いていくことはありません。 それは私の欲でもあり、それによって相手の「時間を私が奪う」ことになったり「気遣いさせる時間」を持たす事になるからです。

それだからこそ、自らが探し求めずに、また「来るものは拒まず、去るものは負わず」の心境で、成り行き任せの必然ご縁のお仕組みに任せていられるのです。