孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「あるがまま」の完全真理に、それぞれの人の思いが入れば、その思いが入った人の真理になります。

2011年07月29日 | Weblog
そのまま、このまま、あるがままの宇宙・神は完全です。
そして良い悪いで判断しない、すなわち「個」を無くする、「あるがまま」の愛を説く真理は完全です。

それに加えて山田耕栄さんが良い悪いで判断しても執着しなければいい、また素朴であればいい、また義理人情を大切にする等と言った真理になれば、それは耕栄さんの思いが入った山田耕栄さんの真理と「あるがまま」の完全真理の二つの真理になりますが、それを山田耕栄さんの完全真理と言っても不都合はありません。

その耕栄さんの「完全」を説く完全真理で学び知った内容の中に、私の思いが入ったブログになればそれは完全真理ではなくして私の真理になります。
しかし大元の完全真理もしっかりと説明し、不完全とごちゃ混ぜにならないようにはっきりと説明していますから、「完全真理」として位置づけしても差し支えはないと思いますし、ただ生きているだけでもいい、食って寝て糞をするだけでもいい、良くても悪くても死に掛けていてもすべてに感謝、また自由が無ければ不完全云々と書いていることは完全真理に添ったことになりますから、(私の言葉で私の思いが入っているが)完全真理のブログと言っても差し支えないと思います。

だから良い悪いを持たない「あるがまま」の完全真理にそれぞれの人の思いが入れば、その思いが入った人の真理になりますから、巷に100人や1000人の思いが入った完全真理がある事にもなります。

そこで注意するとしたら、宇宙・神・愛の完全を説く「完全真理」は完全ですが、そこに「個」の思いが入れば不完全ですから、完全真理の中に不完全な思いが入ったことになり、ややこしくなりますから、たとえ耕栄さんや真理の仲間内が言ったことであっても、それが完全か不完全かの見定めは必要となります。
・・・その見極めも分離意識で不完全だから必要ないと言うのであれば完全真理も必要なくなります。
・・・だから完全真理はどうでもいいと言う人も出てくるわけです。

そこで先程書いたように耕栄さんの言葉であっても、執着や素朴や、優しさ思いやり、愛情、そして義理人情は、個人の思いや感情だから不完全だと(否定反発でも肯定でも無く)その事実を説明してきました。
ただその説明の中に私の思いも含まれますから、耕栄さんの真理ではなくて私の真理に変わるわけです。

また、そんな私の真理を受け取った人が自分なりに判断したら、その時点から(誰のものでもない)判断した人の真理になるわけです。
またそれが良いとか悪いとか否定・肯定するのはそれぞれの自由勝手です。
しかし良い悪いで判断しない「あるがまま」は完全真理ですから、誰でもがその完全を不完全に歪めることは絶対に出来ません。

ところで完全真理の「個」の思い判断を無くする為にも、また否定も肯定も無い「あるがまま」になるにも、また矛盾することは「どうでもいい」と思えるようになるにも、完全真理を深く学び知って相反する不完全を確かに味わい知る実践が必要なのです。
だから宇宙・神・愛の完全意識・完全真理を深く学び知ることが先決だと書いてきました。
そして何が完全か不完全かを見極める力・自力・精神力が必要とも書いてきました。
そしてその完全と不完全の両方を深く学び知ることが重要だとも書いてきました。
その為には日々実践意識で暮らすことも必要と書いてきました。
そして私が不完全意識丸出しで生きているから気付くことも多いと書いてきました。

宇宙・神・愛はあるがまで完全です。
しかしその完全を説いている完全真理に個人の思いが入るのも仕方がないことです。
それを否定反発・排除しなければ「あるがまま」になります。
また否定反発・排除する人がいても、それを気にしなければ「あるがまま」になります。

しかしその「あるがまま」の実践は無理だとも書いています。(ただ実践しているように「思い」込んでいる人はいるようです)
それが不完全意識の人間なのです。
だから不完全意識のままであっても、完全真理を意識した日々の実践があれば、宇宙・神のお仕組みで、何とかなるかも知れないと、私の知っているその思いをブログに書いていることにもなるのです。

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