孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

結果のこの世が夢の世界であり、死すれば(夢から覚めて)原因のあの世&本来の魂(意識命)の元に戻る

2015年02月03日 | Weblog
過疎地で暮らし始めてから私は毎日二度三度夢を見て目覚めますが、その夢はまさに現実が如くに味わいますから、然るに夢の中でも現実に生きている感じなのです。

しかも夢の中で別な夢を見たり(二重夢)、また日を空けて夢の続き(続編)を見るし、また日を空けてその続編の続編と続きますから、その数日は現実の世界で実在して居たかのように思えますから、その夢から目覚めて正気に戻るまでしばらく戸惑うことがあります。

ところで私は霊魂の世界や完全真理を知る以前からして両親や親戚や親しい人が死んでも哀れにも悲しくもありませんでした。

だから当然ながら私が死ぬのが哀れ悲しくも思えませんから、然るに前々から死ぬことに何の未練も執着ありませんでした。

また私が死を恐れないのも完全真理を深く理解したことにあります。
然るに完全真理によって見えない世界の「答え」を学び知り気付き納得確信しているからです。

要するに「原因があるからその結果が出る」まさに明解なる答えを知ったのです。

然るに「この世」があるのは「あの世」があるからです。
だからあの世が無ければこの世も実在しません。
然るにあの世が原因でありこの世は結果なのです。

だから結果である人間が終われば原因であるあの世に戻るわけです。

そしてあの世には人間が形作った諸々、例えば衣食住や名権財や趣味嗜好娯楽やの変化刺激快感快楽もありませんし常識伝統風習や道徳も、然るに法律戒律条例規則規定や否定反発束縛制限支配&組織団体勢力もありません。

また三途の川があったりエンマ大王や天女がいたりするはずもありません。

だから当然ながら自己満足や不平不満の苦楽&喜怒哀楽はありません。
有るのは身軽で自由になった命意識の魂だけです。

ちなみに人間として生まれたからには(遅かれ早かれ)(誰も皆が公平にして)絶対に死にます。

そして不完全な矛盾のあるこの世人間界で生きている間はその矛盾、然るにその苦楽を味わい続けます。

だから真坂の有事、例えば震災に遭遇して、そこで一瞬にして死ねば、苦楽のあるこの世から消えて、苦楽のないあの世に戻ります。

ところが震災から生き残れば、それ以前よりも苦労することになります。
しかも生き残ったがために、死んだ人のことに拘り未練後悔執着することにもなります。

そして再び己が死ぬことに不安心配恐れることにもなります。
また震災の後でも新たな貧困飢餓や真坂の有事に遭遇したり、そして怪我や病気で困ったり、その後遺症や障害で悩み続けたり、その不健康な生き様の苦労が続き、また生きていることの虚しさ孤独感を味わったり、また新たに認知症や成人病や癌や難病を患うかもしれませんし、また介護養護施設で過ごすことになったり、また見離されて無縁死孤独死になるかもしれません。

だから私は生きるも死ぬも成り行きに任せて、そして欲張らずに生きて、そしてこの世の苦楽を味わうことが減って、そして仕組まれ生きていることだけを楽チン省エネでもって味わい続けて、そして己の役割使命が終わり死ぬ時が来たら素直に受け止めて、然るに守り戦わずにして、呑気気楽に死ぬ時を待つだけです。

そこで苦楽のないあの世が本来の世界であり原因となる「魂の世界」であれば、その苦楽の結果となることを前もって思い考え想像空想したり、またその結果を思い感情で味わっているこの世は有って無いが如くの、然るにこの世は実在する現実の世界ではなくして、己の頭の中で思い考え思惑期待しそれらに拘り未練執着している仮想の世界&夢幻の世界同然だと思います。

然るにその人間が終わって死すれば「夢から覚めて現実に戻る」が如くになると思っています。

然るに夢の中で(この世で)我が精神の修養・修練・鍛錬・修行をしていることになり、そして死してそれらから開放されて自由な魂となってあの世でまた生き続けることになると思っています。

そして付け加えることにあるのが
己の死に様を人に見せることが、その生き残っている人に見知らせする、その最後のお役になります。

また奇跡的に助かったり、救助に出て身代わりになったり、その犠牲で助かったりするのも、そんな形があることを世間に見知らせるお役が仕組まれたことであり、またその後の生き様やその死に方も含めて世間に見知らせるお役を果たしたことになると思っています。

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