孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

成り行き任せの必然のご縁のお仕組みだけで人間としての自覚をもって十分に生き長らえることが出来ます。

2010年12月09日 | Weblog
此れまでの私の人生そのものが今で言う必然ご縁の成り行き任せで生きてきたようなものですから、概ね自らが捜し求めて得たというものはあまりありません。
だから成すことに熱中・集中する以前に何らかの必然ご縁の「きっかけ」があったことから何気なく始まり、それを続けているうちにまた新たな必然ご縁があればそれを意識するようになり、その新たなことが今やっていることよりいいものであると実感できれば、以前のものを惜しげなく・未練執着も無く終わらせて、新たに知った事に集中し熱心に取り組んできた、その幾度かの繰り返しから今があります。
・・・「二兎追うものは一兎も得ず」「来るものは拒まず、去るものは追わず」の感じでした。

(参考)それが何度も書いているネットビジネス→環境関連・健康食品→特殊・多機能性健康食品→宇宙エネルギーの水→霊魂想念の世界→過疎地暮らし→完全真理・ファバラで完結しますから、これ以上のものが出るはずも無いことから言えば、この先に必然のご縁のお仕組みで味わうとしたら、それは「高次元・意識の世界」に身を置くことですが、それだけはその時が来なくてはわかりません。

小中学校・定時制高校は友達と遊ぶために行っていた様なものですから学力学歴はお粗末そのものでしたしが、遊ぶ事に関してはひけをとりませんでしたから、(まだ物不足の時代でしたから)手作業に近い道具を使うことも手馴れて手際よいし、見よう見まねで自分のものにしたことも多いし、それだけに創意工夫・アイデアや先見の目・先取り意識もあったことから、それらが概ね現実化しました。

仕事のご縁では親戚からの「大工さん」と「船員」のお誘いがありましたが、それが私の仕事につながる事にならなかっただけです。
ところが長屋を貸していた学校の独身先生のご縁がその父親のご縁につながり、その父親から紹介された総合食品問屋に丁稚奉公風に勤めることになり、その4年後には営業マンとして昭和の高度成長期に新規顧客開拓や新製品の販促に取り組んで物事の多くを知りましたが、父が急死したことでいきなり家業を継ぐことになりました。

そして人任せのお見合いを10回くらいしましたが全て成り行き任せでしたから、今の家内と結婚することになったのも成り行き任せでそうなっただけです・・・私から相手に望むことは殆ど無く、ただ私と一緒に暮らしても良いと思った人が居て(来るものは拒まずで)、それが何の障害も無く結婚に結び付いたのが家内です。

そして妻が何時も側に居てくれる喜びを味わいながら、また妻の喜ぶ姿を見ることが私の喜びにもなったことから、まず姑・母よりも嫁の味方になって嫁の言うなり(成すがまま)になりました。 だから夫婦間で喧嘩になったのはビデオ業をやり始めたときに反対する嫁との一回だけです。 田舎暮らしは嫁にその気が無いから離れて暮らしているだけです・・・ご機嫌は悪いけれど・・・既に始まっていたからには今更しかたがないことですから、私の中には新たな気持ちがあっても過去の未練後悔・執着はありませんでしたので、持っている自力を使いながらも成り行き任せにして今日までどうにかやってきています。

そこで家族・世間・常識・伝統風習・道徳などの「しがらみ」から離れて暮らすことの「良いとこ取り」の自由を味わい知ったわけです。
そして家族や世間の良いとこも悪いとこも、田舎暮らしの良いとこも悪いとこも、その両方を既に実感で味わっているのです。
そして人間関係に束縛制限支配されない「自由」の大切さを知り、またその自由を生かし切るには金銭物質よりもまず身の健康、それには先ず意識・精神の健康が何より大切な事を再度確信することになり、それには未練執着後悔を持たないことであり、それで気にしなくなると不平不満を待たなくてすむことになり・・・ それらを学び知ったことを改めて振り返れば・・・此れまで必然ご縁お仕組みに任せた生き方を知らない間にやっていたことの不思議さを改めて思い知ったことにもなります。

そして世間から見れば「世捨て人」のような生活をしなければ、この世の比較競争社会やその人間関係の矛盾から離れることが出来ないというお粗末な現実を知ったわけでもありますが、それを悲観しての世捨て人としてではなく、また夢や希望や理想目的やの欲を持たずにして、ただ自然の成り行きで起きた必然ご縁のお仕組みで始まったものが今ある限り、それだけで十分人間としての役割使命・自覚を持って生き長らえることも自らが学び知ったわけです。

だから欲張らなくてもいい事を知りますから、望まなくなり、望まなければその不平不満や自己満足を繰り返すことにはなりませんから、世捨て人ではない、時の流れの成り行き任せの気楽さで十分人間として生きていることを味わえるのです。
すなわち人間の姿・格好でもなければ、成して持っている形や肩書きでもなく、すべて「意識」が原因で地球時間を生きている人間ということを、我が身でもって自覚出来までになるのです。
そしてそれが悟り・英知になっていけば(地球時間を超えた)新たな「意識の世界」でそれが活かし切れることにもなるようです。

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