あなたは不完全意識の神だとして事実を学び知っているのに、その神と一緒にいて接し触れ合うことを自ら望みますか?
またその不完全な神を信じて頼ることになりますか?
また暇で退屈していて孤独だからとその不完全意識の神のところへわざわざ出向いていくことを望みますか?
また不完全意識を持って生まれた神にそれではダメですよと不完全意識のあなたがアドバイスすればその神は素直に聞き入れてアドバイスに従おうとするでしょうか?
その神があなたの家族親戚や友人知人であればあなたはどうしますか?
また釈迦やイエスや神がかり奇跡を成す人でさえも無理なことだと知っているのに、それでもほっとかないで無理をするのが人の道だと思いますか?
また家族の人があなたの意識心意気に否定的で反感を示したり、また触らぬ神にたたりなしであなたの思いを避けていたり無関心を示しているのに、それでもあなたは気にしないで楽しく接することができますか?
そんな観点からブログを書いています。
過去のイエスや釈迦らやサイババや耕栄さんでもってしても無理なことを私に出来るはずもないことからして人様のことを「ほっといて」います。
その私がほっといていても、人それぞれに「成るようになる仕組み」がありますから、私よりも先を歩む人が大勢出ているかもしれませんが、それらの人たちは他力によることではなくして、自らの意識が原因で仕組まれ起きた事になります。
その意識が原因の「成るようになる仕組み」からして宇宙・自然・人類が創造されたのですから、未熟な不完全意識の私が関わらずにほっといているほうが(立ちふさがり邪魔するよりも)親切な結果にもなるのです。
だから私がいちいち関わらないでほっといていてもなんら差し支えないのです。
皆がそれぞれに仕組まれて我が道を歩いていく結果になるのです。
その「成るようになる仕組み」からして結果的には世間離れ、しがらみ離れ、家族離れになっている私ですが、その家族も仕組まれ続けているのは事実なのですが、私と違う結果になっているのは人それぞれに意識が違うからです。
だから皆が皆それぞれに違った結果形(役割)になっているのです。
その結果形になったのが宇宙の仕組みであっても、その原因は己の意識にありますから、自己結果の自己責任なのです。
その成り行き任せに出来ない人の意識には(必ず)欲があります。
その欲を叶えるためにも(必ず)他力を使いたがります。
その他力をあてにして使いたがることからして(必ず)人間関係が築かれます。
その必然性から築かれた人間関係は欲がらみですから当然ながら面倒な事になります。
その面倒(ストレス)を避けるためにその人間関係から離れることになっていますが、それが恋愛破綻や夫婦の離婚や家族の崩壊やの人間関係の崩壊につながっているのですが、それも意識が原因の仕組みから起きた「成り行き」の結果ですから(避けて通れない結果として)成るようになったのです。
だから「食って寝て糞をする」だけのような生活であっても、それが果報者は寝て待ての棚ぼた式の意識であればそれも欲得がらみで不平不満が出てきますが、それでも自己拡大意識ほどの苦楽ではありません。
しかし食って寝て糞をしながら「生きている」ことの事実が実感で味わえない場合があります。
だから自己拡大で贅沢三昧していようが、社会の底辺でいようが、生きていることを実感で味わえていなければその価値を知ることにはなりません。
その生きている価値を価値観で計り知ろうとしているからその差が気になって呑気にしていられないようですが、その差を気にしなくなれば物の価値・正味を味わうことになります。
そして此れまでの満足感が満足に変わり、その満足からして多くを必要としなくなる事実を私は味わっています。
だから不完全意識の者同士の人間関係が少ない孤独が孤独感にもならず、その孤独の価値真価を味わうことからして自由の有り難さを味わう事にもなっています。
そして気になる事といえば、単車がスリップ転倒したことから左肩に時たま力を入れると痛みが走ることや害虫に刺された痒みに耐えていることくらいです。
だから猛暑の最中木陰に囲まれた涼しい我家で誰にはばかることなく呑気気ままに過ごしています。
だから人様に気疲れしない(ストレスの無い)天国のように思える最高の贅沢をいま静かに味わっているのです。
またその不完全な神を信じて頼ることになりますか?
また暇で退屈していて孤独だからとその不完全意識の神のところへわざわざ出向いていくことを望みますか?
また不完全意識を持って生まれた神にそれではダメですよと不完全意識のあなたがアドバイスすればその神は素直に聞き入れてアドバイスに従おうとするでしょうか?
その神があなたの家族親戚や友人知人であればあなたはどうしますか?
また釈迦やイエスや神がかり奇跡を成す人でさえも無理なことだと知っているのに、それでもほっとかないで無理をするのが人の道だと思いますか?
また家族の人があなたの意識心意気に否定的で反感を示したり、また触らぬ神にたたりなしであなたの思いを避けていたり無関心を示しているのに、それでもあなたは気にしないで楽しく接することができますか?
そんな観点からブログを書いています。
過去のイエスや釈迦らやサイババや耕栄さんでもってしても無理なことを私に出来るはずもないことからして人様のことを「ほっといて」います。
その私がほっといていても、人それぞれに「成るようになる仕組み」がありますから、私よりも先を歩む人が大勢出ているかもしれませんが、それらの人たちは他力によることではなくして、自らの意識が原因で仕組まれ起きた事になります。
その意識が原因の「成るようになる仕組み」からして宇宙・自然・人類が創造されたのですから、未熟な不完全意識の私が関わらずにほっといているほうが(立ちふさがり邪魔するよりも)親切な結果にもなるのです。
だから私がいちいち関わらないでほっといていてもなんら差し支えないのです。
皆がそれぞれに仕組まれて我が道を歩いていく結果になるのです。
その「成るようになる仕組み」からして結果的には世間離れ、しがらみ離れ、家族離れになっている私ですが、その家族も仕組まれ続けているのは事実なのですが、私と違う結果になっているのは人それぞれに意識が違うからです。
だから皆が皆それぞれに違った結果形(役割)になっているのです。
その結果形になったのが宇宙の仕組みであっても、その原因は己の意識にありますから、自己結果の自己責任なのです。
その成り行き任せに出来ない人の意識には(必ず)欲があります。
その欲を叶えるためにも(必ず)他力を使いたがります。
その他力をあてにして使いたがることからして(必ず)人間関係が築かれます。
その必然性から築かれた人間関係は欲がらみですから当然ながら面倒な事になります。
その面倒(ストレス)を避けるためにその人間関係から離れることになっていますが、それが恋愛破綻や夫婦の離婚や家族の崩壊やの人間関係の崩壊につながっているのですが、それも意識が原因の仕組みから起きた「成り行き」の結果ですから(避けて通れない結果として)成るようになったのです。
だから「食って寝て糞をする」だけのような生活であっても、それが果報者は寝て待ての棚ぼた式の意識であればそれも欲得がらみで不平不満が出てきますが、それでも自己拡大意識ほどの苦楽ではありません。
しかし食って寝て糞をしながら「生きている」ことの事実が実感で味わえない場合があります。
だから自己拡大で贅沢三昧していようが、社会の底辺でいようが、生きていることを実感で味わえていなければその価値を知ることにはなりません。
その生きている価値を価値観で計り知ろうとしているからその差が気になって呑気にしていられないようですが、その差を気にしなくなれば物の価値・正味を味わうことになります。
そして此れまでの満足感が満足に変わり、その満足からして多くを必要としなくなる事実を私は味わっています。
だから不完全意識の者同士の人間関係が少ない孤独が孤独感にもならず、その孤独の価値真価を味わうことからして自由の有り難さを味わう事にもなっています。
そして気になる事といえば、単車がスリップ転倒したことから左肩に時たま力を入れると痛みが走ることや害虫に刺された痒みに耐えていることくらいです。
だから猛暑の最中木陰に囲まれた涼しい我家で誰にはばかることなく呑気気ままに過ごしています。
だから人様に気疲れしない(ストレスの無い)天国のように思える最高の贅沢をいま静かに味わっているのです。