孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

お蔭さまとお互い様の意識とその感謝の心があれば真坂の有事が仕組まれることも少ないようです。

2011年11月14日 | Weblog
前回の投稿で気付いたと思われますが・・・
不完全意識の私が意識して出した愛は不完全意識から出ただけに同じ不完全な愛になりますが、私が意識しているわけでも無いのに自然と出ている(知らない間に出ている)のはあるがままの自然体の愛になります。
だから過疎地で呑気気ままに生きている私の生き様を見て、それを真似てみたいと思う人がいたり、憧れることになったりしても、また私の生き方を否定反発する人がいても、それは私が意識して出した結果ではありません。
だから私の知らない間に人様の意識に影響を与えていた事になりますので、それが人様の意識に届いた愛になるわけです。
ただその受けた愛を如何様にするか、どう判断するかはその人それぞれの意識にかかっていることです。

だから成り行き任せの必然ご縁は宇宙・神のあるがままの愛の仕組みで起きていることであり、その必然ご縁で関わる人からも(その人が愛を出しているとは思っていなくても)その愛を私が受け取っていることになるのです。

その事例が変わりますが、私が何らかの被害に遭遇しても、その加害者を責めることよりも、先ず自分の心・意識の隙間・油断をつかれた事に気付き反省することになります。 そして気付かせてくれた加害者やその被害に遭ったことをアリガタイと感謝の気持ちになればいいのですが、そこまでは無理にしても、その加害者を責め続けることにはなりません。

その事例に車両の接触事故で此れまでに3件ありましたが、いずれも相手の不注意が大きな原因だけに損害賠償を請求できる立場ですが、乗っている車が頑丈な中古の軽トラックだけに損傷も少なくて平気なのですが、相手の新車・旧車の損傷がひどいだけに気の毒になり、何事も無かったように簡単に済ませて終わりますが、その時の相手の安堵の表情が私を嬉しく楽しくさせてくれました。

また夜間高校の帰りに太陽族まがいの荒くれ青年に暴行を受けて後遺症が出るほどの警察沙汰になりましたが、その後にその犯行グループを街中で見つけても面倒に巻き込まれるのがいやで警察に通報しませんでした。
また精神世界を知る以前にも大きな車両接触事故が2件ありましたが相手側の対処だけで穏便に済ませることになりましたし、詐欺まがいの学習塾経営で大損したことも、また摩訶不思議な事に取り組んでいたときの宇宙エネルギー浄水器を騙し取れたことも2件ありますが、いずれも執着しないままにほっときました。

すなわち精神世界で言われるところの起きてしまった過去のことに執着しないことが私の中に過去性から潜在的に根付いていたのは確かなようです。 そしてその被害に執着しないで終わらせることからして、その自分が反対の加害者の立場になるようなことが起き難い「意識の世界」の仕組みがあると思っていますが、現に何の騒動も起きずに此れまで平穏無事に来ています。

・・・元に戻しますが・・・
詐欺師やドロボウさんにも殺人者にもこの世の必然で仕組まれた役割を果たす愛があったことになるのです。
また自らが怪我したり病気や死に目に遭うのも、その必然ご縁の仕組みの中に愛があったからそうなるのですから、その愛に気付けばいいのです。 しかしその愛に気付かなければそれが不満不足になったり不安心配や恐れ恐怖にもなるのです。
だから何事にも感謝の心になる「すべてに感謝」の意識が言われる訳です。

そしてお互い様だから、共に許し合うことで、その自分も結果的に許されて(意識が開放されて)→それがお蔭で執着しないで済むことなりますから→それがまたアリガタイ感謝になるのです。
だから詐欺師やドロボウさんや殺人者をアリガタイと思うのに無理があっても、それを許すことでその執着が消えて(出てこなくなり)自らが気楽になれるのは事実にあります。
しかし執着が残っていれば、その執着に自らが束縛制限支配されます。

またその感謝の心があるから真坂の有事(人的災害や天災)に遭遇しないで済むとも思っています。
・・・言い換えれば「感謝の心」を学ぶために有事が仕組まれているとも言えるのです。
だからわずかな事に心からの感謝(喜び)がある人にはその有事が起き難いともいえるわけです。
また有事に遭遇しても被害が少なかったり、また大きくても土台(精神力・実践力の実力)が残っていて、その立ち直りが早くなるとも思っています。

そして欲が少ないから必然ご縁で与えられ恵まれることになり、しかも欲が少ないから些細なことでも喜び感謝になるのです。
だから自己満足には苦労が伴うが、自己縮小には労せずに満足を得ることが出来るわけです。
だから成り行き任せが板につくのです。

自己拡大は自己満足になり感謝の心にはなりません。
その感謝の心がないままに自己拡大ばかり続けているから真坂の有事が仕組まれるのです。
しかしそれにも負けずに自己拡大を続けると更に大きな有事に見舞われます。
そこで感謝の心に気付くことが出来てもすぐに「雨やんで傘を忘れる」ことになれば、その自己拡大が出来ない状況に置かれる仕組みにから、それがうつ状態や痴呆症や要介護の有事になるやもしれません。

感謝の心を忘れている原因から、この世で現実に起きている様々な有事が結果として現れ、その結果が我が身や身近な人にも起きたりしているし、また巻き込まれていますから、「何で私が・・・」となっているのです。
また「あの世」でも同じでして、自己拡大してきた特別意識の人にも<何で私が・・・>の自分の予測と違う結果が待っています。
そこで人様に擦り付けて「あの時のあいつが悪い」「あのクソ坊主のせいだ」と宇宙的霊能者に語ることになるかもしれません。

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