孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自分の思いが強く出る人、自我が強い人は、自らが救われることを拒んでいます。

2016年01月19日 | Weblog
巷の精神世界・信仰宗教に全く無頓着だった私が宇宙・神・愛意識の仕組まれの連続からして霊能者や完全真理にご縁があり、
しかも引き寄せられたが如くに2000年のシドニーオリンピック開催日に此処へ来ることになり、
それが精神世界の根本となる自己縮小と言う形だと初めて知ったことからして「水を得た魚」如くに自信となり、
その独自独歩の生き様からして気付いたことをブログを書きながらにして、これまた自らが気付くその連続からして現在の私になったわけですから、
まんざなら自己満足や自惚れ慢心や自己陶酔・自己洗脳で書いているのではないと自信確信があります。

と言うことからして書くのですが、
此れまで少なからず人様と精神世界のご縁がありましたが、私には何ら特別が無いからか、何やら力不足・魅力不足で、しかも実践しても特別・ご褒美のおまけが無いことからして、せっかくの必然のご縁の仕組まれが役立たずに、結果的にはご縁が途絶えることになります。

またこの人ならひょっとしてと期待できるものがありながら、それだけの優れた感性を持っていながら、しかし奥深くまでは理解したがらない自我みたいなものが邪魔するのか、途中で止まってそれ以上に一歩踏み込んではきません。

そして次第に縁が薄れますから尚更それ以上に説明する機会もなくなります。

然るに必然ご縁でつながり、そこで新たな気付きになって目から鱗が落ちたはずなのに(いつの間にやら)何で私についてこれないのよ…それでは新たに気付いたことが勿体ないでしょうに…となるのです。

そしてその都度「何でそうなるのよ…」と自問自答しているのですが、
それがどうやら強い自我=此れまで積み重ねてきた諸々が強い思い=何やら変な自信みたいになって潜んでいる潜在的なもの=此れまでの様々な経験からしての私は正しいの主張誇示とその守り意識みたいなもの=それがゆがんだ自信になっているというか=自分なりに自分を見て何やら悟った如くになっているというか=変な自信めいた自我からして=自分の中の精神世界から一歩抜け出せないでいる=または元の己の精神世界に戻ってしまう=元のさやに戻る=と言った感じではないでしょうか、

だから柵シガラミを断ち切ってまで(思い切って)出家するとか教会で寝食を共にするとか、お堂や洞窟にこもるとか、精神修行のためにホームレス覚悟で行脚するとかまでは実践できない己の自信自力精神力の無さが自我となって凝り固まるのではないでしょうか、

それと自己縮小の実践に気付くも、しかし誰にも欲がありますから、内心では今より少しでも良くなればとご褒美のおまけ欲しさが出て来て、どうしても本気の実践には至れないのでしょう。

だから言うだけや見せ掛けだけの自己縮小ですませていたのが、それが「どうでもいい」ことになり、内に隠していた本音が出て来て、なんやら結果を求める自己拡大に向いていくから、

そこで私がそんな事をしても無駄で後悔することになるよと提言することがあっても=やってみなきゃわからない=それも経験になることだから=とばかりに自我・私は正しいの正当化・主張誇示が出て来るのです。

そして案の定予測したような結果になると今度は精神世界なんて「どうでもいい」=すなわち自己縮小なんてどうでもいい=とばかりに逆切れみたいに変わるのですから、
結局はほっとくしかない、どうしようもない、救いようがない、本人任せにして、本人が気付くしかないとなるのです。

その精神世界なんかどうでもいいのは事実ですが、その根拠・根本原因を実感納得確信していないところに問題が残るのです。

だからどうでもいいと言った精神世界から離れても、その離れたことの価値を見出せないままにして、従来通りの惰性的な生き方に戻ってしまうのです。

となれば此れまでの生き様を根本的にひっくり返さない限り=新たな生き様=自分が思うままの生き様に=変化しようが無いということになります。

然るに私は成り行き任せながらも仕組まれ続けて現在に至っていますが、その仕組まれがが無ければ自らが仕組むしかありません。

また自らが仕組まなくても先々で有事となって自己縮小が仕組まれます。

そして仕組まれなくても老後と言う自己縮小の形が絶対に来ます。

ただ自らが選んだのと無理やりの違いがありますが結果は同じです。

然るに己の意識が原因でなくても宇宙・神・愛意識の仕組みに元からして仕組まれているのですから誰も避けては通れないのです。

とにかく人間として生れ出て自己拡大だけを味わって終わることが出来ない仕組みからして誰もが絶対的に自己縮小を味わうことになるのです。

ただ幼少のころに死んだり若死にしたり突然死することが仕組まれる場合もありますから絶対とは言えません。

しかもその自己縮小になったときの生き様からして人間本来の役割使命や生きることの意味・価値に気付かなければならないのですが、
それでも自己拡大を引きずり未練執着でもって何とかしなければと頑張り欲張り見栄張りしたがるのが人間の性です。

だから尚更に強制的な自己縮小&どんでん返しが仕組まれることにもなっているのです。

とにかく自らの意識命を救うのも、自らの意識命の有様に掛かっているのです。

またどんな方々であっても人様の意識命を救うことは不可能なことです。

だから自らして自らの命意識を救うしかありません。

然るに役立つのがこのブログです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。