孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理を実践することになれば、この世の不完全な形やその人間関係が必ず邪魔をすることになります。

2011年02月20日 | Weblog
良い悪いで分離判断しない完全真理を知ったことでその実践が必要になりますが、ところがその実践にはこの世の不完全な人間関係が必ず邪魔をすることになります。
それが恋人関係であったり夫婦や家族親戚や地域社会や仕事などの人間関係です。

すなわち完全真理によって、この世の不完全な常識や伝統風習や道徳から生老病死や喜怒哀楽や古今東西の信仰宗教や思想哲学の類までの不完全さを知る事になり、また医科学や生産技術やシステムなどの形を含め、この世の全ての不完全な形やその意識を改め修正することを意識した実践になりますから、当然ながらそれらが正しいと思っている人達と心・意識・思いが通じ合うこともままなりません。

それを無理押しすると胡散臭いカルトに染まった人間に思われたり、世間離れした人間に思われたりして(この世の時代にそぐわない意識が原因となって)誰彼と無く違和感・不信感を持たれて否定反発されることになり、それによって此れまで築き上げ維持してきた人間関係に支障が生じたりして、その中には離別・別居・離婚や家族やの崩壊にまで及んでいる場合も事実にあります。
たとえそこまでに至らなくても、完全真理を知ったことが原因で関わる人の中に新たな不平不満が出てきたり、その実践が不都合に思える人から否定反発されたりして、特に身近な人からが多くあり、その責任まで追及されて問題化する場合も有ります。

それもその筈です、何故ならこの世の人間関係は皆して束縛制限支配するための集合体・形ですから、己一人の意識のままに自由に生きることが(身近な人達から何かと)阻害されているのが現状です。
しかも皆がそれぞれに自分の思いは正しいと思い込んでいますから、その自分の意に添わない者を何かと否定反発して当前に思っていますし、なかにはその間違いを言い聞かせて(言訳・正当化で誤魔化してまでも)その過ちを悟らせようと戒められたり、またアメとムチを見せかけに使ってまで思い止まるように仕向けられたりと、何としてでも自由勝手にさせないように仕組まれ邪魔立てされている場合が多くあります。

その時に便利な言葉(事実や真実に関係なく使う言葉)が「愛情」「愛社精神」「愛国心」であり、世のため人の為に「尽くせ」、博愛精神を持て、高い目標・理想を持て、頑張れ、鍛えろ、耐えよであったり、その逆に使えるのが「薄情」「無関心」「自分勝手・気まま」「放任主義」「自己主義」と言う言葉を投げかけることです。
中には権威権力を使っての脅し文句やまた誘惑の甘い言葉や同情を誘う言葉も使っています。

そうなると概ね自信・自力の少ない人ほど弱腰になったり、触らぬ神にたたりなしで逃げ腰になったり、うまく丸め込められたり、また面倒なことに関わることを避けたがる傾向になりますが、そんないい加減な意識・気構え気力であれば完全真理の実践がままならないのも当たり前になります。
・・・だから自信・自力が無ければ「無理」をしてまで真理を実践する必要はありません。

だからこそまず先に完全真理を知識であってもかまわないから、何が不完全で何が完全なのかを深く知り尽くすことであり、それが自覚納得・確信にいたり、それを実践する気になれば、今の自分に無理なく出来る実践を試みればその結果・確かな答えが出てきます。
その試みで(他を巻き込まないで出来る)一番手っ取り早いのが(自分の中にある)過去や未来に「執着」しないことです。
そして執着しなくなったことで少しでも心が軽やかになればその実践の成果を身を持って自覚・悟った事になり、それが自力・自信にもなります。

そこで次に「質素」に生きることを心掛けていれば更に執着が消え、苦楽の山や谷の無い平坦な道を歩むが如くに穏やかな生き方を味わい知ることになり、それが自力・自信を高めます。
その無理の無い、余計な事が無い、すなわち無理も無駄も無い質素から今度は「素朴」に生きることが出来るようになります。
すなわち無駄になる余計なことさえも思い考え判断しないままに、そのまま・このままの「あるがまま」に生きることになり、「食って寝て糞をする」という人間本来の「素朴」な生き方を味わい知り悟ることになります。

ところが先程に書いたように今の不完全な意識の人間関係がその実践を邪魔しているのも事実ですから、それを自覚した上での自力でもって問題を解決するしかありませんが、まず円満解決する可能性がゼロに等しいというのがこの世の事実にあります。
だから(私としては)そんな不完全な人間関係・世間を気にしないで、独自独歩の自由な生き方や宇宙の仕組みのご縁必然の成り行き任せに生きる(不完全な形から脱却する)すべをこのブログで紹介しているのです。

そこで完全真理によって「完全」を学び知ることになり、この世の人間関係からは「不完全」を学び知る事になり、しかもその焼いても煮ても食えないお粗末な人間関係を深く味わい知ることにも宇宙の仕組みからすれば必然だったことも知るのです。
そして「不完全」からは<完全>が絶対に生まれないこと、すなわち不完全な意識の人間がどんなことをしても完全な自由・平等・調和の世界・人間関係を絶対に実現出来ない事を心から学び知り悟ることが私達に必要だったのです。

すなわち(完全真理によって)此れまで特別な余計なことで無理をしてその苦楽を味わっているのに、その成している事が不完全だから全てが無駄な事になるという、その「無駄な生き方」をしていることに心から気付くことであり、また頭の中で思い考え判断して想像している未練執着の「非実在の生き方」の過ちに気付くことが必要だったのです。

また不完全なこの世で生きているがだけにその完全なる調和の世界の素晴らしさに気付き学び知り悟ることにもなり、またその完全意識になる必要性をも併せて学び知ることになり、その実践で学び知ったことが自覚・自信や悟り英知となれば、それでもってその人間の命・意識の進化が「すべてはひとつ」の(一心同体の)宇宙の進化にもつながることを(新たに)知ることにもなるのです。

しかもそれが地球人類が創造された<原因>ですから、その完全な宇宙の仕組みから(必然から)やがて人間の役割使命を果たす時が必ず来ることから、その「終り」が新たな「始まり」となり、それが「進化」と言われる<結果>なのです。
すなわち<原因>があればその<結果>が必ず出てきますから、その原因が完全であればその結果も完全ですから、その結果が<進化>と言われる形でこの世に現れいますし、その進化が宇宙の中で永遠に続くのです。

そして人間が思い考え判断したことは非実在ですから不完全になります、その不完全があたかも実在しているように錯覚勘違いしているから不完全意識の人間と言われるわけです。
だからその非実在の不完全意識を消し去る実践が求められているのです。
だから思い考えないで<あるがまま>に生きるためにも「質素・素朴」に生きることが言われているわけです。

「改正」 此れまでの「質素に生きる」に「素朴に生きる」を加えて「質素・素朴に生きる」と改正します。

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