孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「質素」は何でもケチることでは無くて、欲張り無理をしないで自力や他力を無駄にしないことにあります。

2011年01月22日 | Weblog
私達は良い悪いの無い完全意識・愛や宇宙意識と言われるものを実感で味わっていなければ、それら意識に到達するための実践に自信が持てないことから、その分だけ実践が疎かになったり、または完全真理に不信感さえも持つことになるかもしれません。

そこで完全真理の「あるがまま」の自然体・成り行き任せに生きることを意識して暮らすことで、それが質素になれば、欲を出して自らが捜し求めたりしませんから、今あるものを使い切る事になったり、それが無ければそれだけ自力を使う事になるし、その自力を今は持っていなくても(他力を使わずにして)自分なりに何とか創意工夫してやっている内に、それが自分なりの自分に適した自力になります。
そして自力で事を成したことで満足を味わいそれが喜び自信にもなります。
・・・「付記」・・・
ちなみにその満足を自慢するようであれば自己満足になりますが、質素なだけに(大したことでは無いだけに)その自慢することさえも馬鹿らしくなるし、大したことでも無いその自己満足をするために無理に何かをしでかすと言うような余計な事に足出し手出し口出ししなくなります。 だから以前にまして質素・簡素になっていきます。

自力で創意工夫しても問題が十分に解決できなければ(自力不足であれば)それを補ってくれる便利な機材器具が必要・必然になったり、それらを専門に解決してくれる他力人頼みにもなりますが、そこで出費が必要になります。
・・・だから仕事で収入を得る手立てがこの世に(選り好みしなければ)平等にあります。
そこで出費して新たな機材器具やその中古品を買うことになったり、または業者に依頼することにもなりますが、例え出費したとしても、今まで自分に出来なかったことが機材器具のお陰で出来るようになったり、人様のお陰で問題が解決できることになったのですから、その喜び感謝もしぜんに出てきます。
そして新たな機材器具を大事に使い切ることにもなるでしょうし、そのことで金儲けになった販売店や業者も同じ喜び感謝になりますから、共に喜び感謝のお陰様やお互い様の関係になり、そこに協調調和があります。
・・・だからむやみやたらと何でもケチることが質素ではありません。

ところがその出費できる金銭が不足していたなら、それも自力不足のひとつですから、その自己責任で納得して(執着しないで)あきらめることが肝要になります。
そこで無ければ無くても平然と生きていくことが出来れば、それが「あるがまま」の意識で生きていくことになります。

そしてそのままに、無理をせず欲張らずの「あるがまま」の成り行き任せであっても(何もし無くてもいいということではありませんから)、何事にも自力を使って出来る事を惜しみなくやっていれば、(それが巡り巡って)先程のこの世のお陰様・お互い様の関係から、いつしか必然のご縁の巡り合せで自分に適した仕事が出来たり、余計になった余りものや中古品を人様から頂く事になったり、その時々でご縁があった人から優しくされたり、惜しみなく協力・助力してくれることになったりします。
・・・私にこのような事例・実例が数々あったことから、それが自信になり、その実感を込めてブログに書いているのです。

だから「質素」に生きることの真価を理解して納得確信自覚の意識になっていれば・・・質素に生きているだけに、いつの間にやらプライド・見栄や世間体を気にしていたことが馬鹿らしいことにも気付きます。
しかもプライドが無くなれば世間の常識・伝統風習・道徳さえもどうでもよいことに気付きます。
まして財を成すことや名誉名声肩書き・権威権力にこだわる人(無理している人)が気の毒にさえも思えてきます。

だから(私の場合)それらにこだわっている人との接点が薄れてきてそのご縁が遠のき、それがやがて孤独にもなります。
ところが孤独になればその孤独に、今までに無かった「自由」がある事に気付きますから、その孤独を大いに味わう意識にもなります。
すると余計なことでよそ見をすることも減り、それだけ今まで見逃していたことに気付いたり、まったく知らなかった新たなことに気付きが起きたり、忘れていた大切な事に気付き蘇り、それらがこれからの人生に活用できるまでになります。

★そして何の無理も無く自然体で自分に出来ることを素直にしていることが愛であり、それが宇宙意識・神や愛の意識であることに気付き、そしてこの世に「特別」がいっさい無い事に気付き、それが「あるがまま」の愛で生きていることだと気付きます。

そうすると好き嫌いで選り好みすることよりも、自分に出来ることだからやることになったり、また大したやる気でもなかったのにいつの間にか喜びあふれる結果になっていたこともあるでしょうし、また自分に出来そうなその自信があるからこそ目新しい事をやり始めることもありますが、それが例え失敗しても自力不足を味わっただけでそれ以上の無理も執着も無く終ります。
それでもその途中までやれたことはそれが自力にもなり自信にもなります。
そしてそれらを繰り返しているうちに、やれなかったことまでがやれるようになったりして、それがまた自信にもなる、その繰り返しが自力・能力となって更に自分に出来ることが増えていくことになり、それが「鬼に金棒」の自信にもなります。 すなわち無理の無い生き方に自信が付きます。

そのやれる事をやっている内に遅かれ早かれ結果が出ていることからして、欲を出して急ぎ慌てる無理をし無くても、やれるだけやっていたら遅かれ早かれ「成ることは成る」ことに実感で気付くことになります。 そして焦らず欲張らずに成り行き任せに待つことの出来る意識にもなります。
・・・だから欲のある特別な暮らしをしなければ(田舎暮らしで無くても)「質素」は実践出来るのです。
それには見栄や世間体・プライドなどを無くしていかなければ実践に無理が生じてきます。
すなわち「執着」にしても「質素」にしても個人意識が実践の邪魔をするのは同じです。

だからやはり「完全真理」を学び知り自覚・納得・悟りに至ることが先決になるのです。
ところで矛盾の世界だけに「逆も真なり」の結果があります。
だから世間の隅や底辺でいる人ほど何かと真理の理解が進むことになったり、失うだけ失った人のほうが(元から質素なだけに)真理の実践に活かされることにもなりやすいのですが・・・しかしその「完全真理」を読み取り感じ取ることが出来るか否かはその人が持っているその意識にあります。

だから人間は姿形に関係ないところの(見えない)「意識」で生きているのです。 そしてそれが「命」なのです。
そして「意識」「命」にエネルギーがあるから、人間の姿形を維持することが出来ているし、その姿形を使って行動表現して見せることが出来ているわけです。 だからその意識の現われが肉体・感情体・精神体で表現されているのです。
すなわち人間の姿形は意識を表す「道具」にしかすぎません。
だから意識が大切になるわけです。

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