孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

孤独の自由にして欲張らなければ=心の平和・心の満足=を味わえます。

2019年12月09日 | Weblog
不満と欲と矛盾に満ちているこの世で自由平等平和になることは絶対にありません。

となれば…此れまで通りの不平不満と自己満足の喜怒哀楽の繰り返しでもって生きていくしかありません。

まして不完全で矛盾偽善のある神仏霊魂やの世界を説く形からして心の平和を望むのも愚かなことです。

ちなみに神懸かり奇跡に見せ掛けた超能力や念力手かざしの類でもって人集め金集め物売りと化している諸々に惑わされていては助かるどころか知らない間に墓穴を掘ることになります。

となれば素朴謙虚にして生きていく自己縮小の実践しかありません。

ちなみに田舎暮らしとか自給自足とかニートやサイレントテロと言われる山奥ニートやホームレスにして生きていくことにもなります。

しかしどんな形にしても不満と満足の喜怒哀楽で生きていくことには変わりありません。

となれば…此れではダメだの不満と何とかしなければの欲から離れた生活にして欲張らない生き様しかありません。

ちなみに私は宇宙・神・愛の仕組みの・奇跡が如くのお仕組みに仕組まれ続けて・過疎地でもって孤独の自由を味わうことになり、
そこで素朴謙虚な自己縮小の生活を味わっていましたが、
それでも少なからず不満と満足の喜怒哀楽の繰り返しとなっていました。

その原因が自己縮小でもって暇で退屈なことからして広い敷地を囲いヤギを放して雑草対策にしたり、鶏や烏骨鶏を放し飼いにしたり、
また鶏を守るための網の囲いに引っかかった鷹やトンビやカラスや罠にかかったハクビシンやら忍者如くの侵入者の蛇までも・変化刺激・暇つぶしに・しばらく飼ってみたりして、それらの能力や賢さに驚かされていましたが、
それら生き物を飼育することの満足よりもその世話をする面倒やそのストレスに気付きやめました。

また自給自足とまでいかないが季節の野菜などを栽培したり、果実の木を植えたり、竹の炭を作ってみたりしましたが…
とにかく暇つぶしで満足するために自分の思い付きを形にすれば・自己満足するために欲を出せば・その苦労と不満とストレスが付いてくることに気付いたのです。

それ以来…人為人工的なことよりも自然界の季節の贈り物となるタケノコやワラビやゼンマイやフキや栗拾いでもって…妻や娘夫婦や孫のお土産にすることの喜びを味わうことになりました。

ちなみに今は世話しなくても収穫できるキウイやあたり一面に生えているドクダミをお茶葉にしたり、マタタビやアケビのツルを敷地に移植したり、シナモンの香りがするニッキの木も移植しているし、サルナシと言われるミニキウイの苗を植えたばかりです。

とにかく仕事らしい仕事となれば牛舎のパートで月15日×一日2時間程度するだけでして、それ以外の時間は急ぎ慌てる必要もない・しなくてもいい雑多を時間つぶしにするだけのグーたら生活になっています。

そんなグーたら生活を長く続けているうちにふと気付き目覚めたのが…
満足と不満の喜怒哀楽のない・不安心配・苦労苦悩のない精神安定にして暮らすことが心の平和・心の満足だと納得確信となったのです。

また逃げるが勝ち・負けるが勝ちにして・守るために闘うこともなく・私が正しいと主張することなく・心平穏にして暮らしています。

そんな中で特に言えるのは人間関係の雑多から離れた孤独の自由とその精神安定にあります。

ちなみに仙人が如くの暮らしは無理でも、多くの人間関係がないほど心静かに暮らせることは間違いありません。

ちなみに牛舎のオーナーとの関係のように…成り行きからして仕組まれ…互いが必然ご縁の関係となれば…何の問題もなく長く続くことです。
また最近ではチョットしたキッカケからして竹藪の伐採を手伝うことになった人との関係があります。

何はともあれ…欲張り続けて名誉名声や権威権力や財力をもってしても…心の平和・心の満足が無ければ…喜怒哀楽の繰り返しを味わうだけで…自然界の中で心静かに生きている価値を味わえません。

…若かりし頃はともかく…人生の集大成となる老後となれば…若者や世間から見放された感じになり…その孤独が孤独感になりもなり…寂しさやわびしさを味わうことになるのは間違いありません。

ちなみに後期高齢者となった私が健康健全な心身でもって事無く生きているのも欲張らないでいるからです。
…欲張って幸せになれることは絶対にありません…

とにかく…この世の自由平等平和は絶対に無理だが…
個人の…孤独の自由と比較競争差別をしない・守り闘わない・心の平和を味わうことはできます。