孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

拘り執着が消えると内なる精神や外周りや見えない先々のことまで見えてきます。

2017年12月07日 | Weblog
私が自己拡大に一生懸命になっていた時の殆どが単なる自己満足で終わっていて、何かと数多くやった覚えがあるが、その満足したことが何だったかの記憶さえも消えているのです。
ちなみに変化刺激に富んだ映画ドラマで感激感動したのに時とともに忘れてしまっているようにです。

とくに妻と一緒に過ごす時間が多かったのに、その妻と記憶印象が薄く、殆どが新婚当初だけで、それ以外と言うとエッチ方面しか残っていない有様です。

だから私が子供たちと過ごした時間や小中校の部活などにかかわったことの記憶が多く鮮明に残っていても、その時も妻が同伴していたのになぜか妻との接点の記憶が少なくただ一緒にいたというイメージしかありません。

ちなみに妻は外見を気にするタイプで・見栄世間体プライドが高かったのは事実ですから、世間知らずの弱輩な私との接点では高度な満足に至らない中途半端だったから…妻が心から喜ぶことが少なかったのかもしれません。

何でこんなことを書いているかと言うと…私の場合は…欲求不満からしての自己満足よりも…自己満足と言えるような大きな満足ではなくて…同じ仲間同士が一緒にいるだけで楽しくなる・互いが解り合え納得できた嬉しさからしてしぜんと笑顔が浮かぶ・目線があっただけで微笑みが出て来る・自然界のありふれたことながらも共に感じて喜びあえる…そんな柔らかい感じの満足・至福の時ほど…数は少ないが…何年たっても再現されたかのよな鮮明な記憶となって蘇るのです。

だから巷の人為人工的な変化刺激に惑わされないで・拘り執着しなければ…心静かになり・己の内なる精神や周りで起きている小さなことにも意識が使われるということです。

然るに部屋に閉じこもり変化刺激に富んだテレビ・連続ドラマを見るよりも…心静かにして自然界の中でいるほうが快くもなるのです。
道端で見る紅葉でもって季節感を味わえるのです。
桜の花だけではなくして足元の小さな花にも見入り意識が使われるのです。

然るに束縛制限されて自由が失せるのと同じく・拘り執着も束縛制限されたのと同等なのです。

だから特別に惑わされて生きるよりも普通にして生きているほうが本来の人間らしさを味わえるのです。

それが特別三昧だと山あり谷ありの喜怒哀楽や波風の立つ波乱万丈の生き様になるが…
普通の当たり前で生きているほうが変化刺激がない大船に乗った心持ちで過ごせるのです。

然るにそれも人それぞれですから…己の生き様は己が選ぶだけです。