孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

地球から高度文明と差別意識が消えて、自由と個性を尊重する時代になればの<未来予想図>

2012年04月09日 | Weblog
私がしがらみから離れて自由に(過疎地で)暮らすようになって、そして文明の利器をあまり使わない素朴で自力の多い生活になり、また二年前から単純労働の肉牛のエサやりのパートに通うようになってから、それで十分に思える意識になっているのですが、そこでもしも、この世から高度文明と差別意識・特別意識が消えて、それぞれの個性・役割とその自由を尊重する時代になれば、地上の天国が味わえるのではないでしょうか。

その高度文明が消えると絶対的に自力を多く使う事になりますから(猫の手を借りたいほどに)人手不足になります。
また素朴だけに物事も簡単ですから、様々なことをやればそれらが簡単に(誰もが)(何でも)出来るようにもなります。
だから学力学識・学歴重視も特別な人脈コネも不要になります。
その自分に出来ることの中で最も自分の個性に適している役割・仕事があれば、その時々で必要とされているところへ出向いていったり必然ご縁で来られた人に対してその自分の力量・能力を惜しみなく発揮すればそれでいいわけです。

例えばジャングルの中で暮らしている民族のように、木組み竹組みのベテランや穴掘りや木登り山登りや泳ぎの達者な人や、魚つかみや釣りが得意な人がいたり、野生の獲物を捕らえるハンターがいたり、薬草やその治癒の知識がある人がいたり、食糧植物探しのベテランがいたり、お年寄りや子供の面倒見や家畜の世話が好きな人がいたり、調理料理が好きな人がいたり、素朴な娯楽や遊びを考えたり見つける人がいたりして、しかもそれらを掛け持ちでする人もいたりしますから不自由することは先ずありません。

また事故の怪我や病気になっても自然界の薬草の知識がある人や治癒・治療に心得のある人に任せておけばいいことですし、また自らの治癒力を生かすために療養休養していればいいことだし、自分のしていた事を誰にでも任せられますから何の心配もせずに安静にしておれます。
また執着することが無くなっていれば死さえも執着しませんから、自ずと安らかな死・自然死が訪れますし、その死後の世界・あの世でもそのままの安らかな意識・命のままが続きます。

また子供の時から周りの大人から見よう見まねで(簡単なだけに)色んなことを学び知り会得していますから、現代のように取り立てて専門家が教育指導することもありません。
それを現代風に言えば、鍛冶屋の子が鍛冶屋になっても当然ですし、皆の自力を助ける便利な道具だけにその鍛冶屋が地域で必要なくなる時代がくることもありませんし、また職業差別や階級差別がありませんから、自分の持つ個性・自力や豊富な経験と実績のその自信でもって代々に渡って引き継ぎ・受け継いで続けることもできます。

また豆腐屋がうどん屋を兼業することになっても、その地域の特性・必要性から兼業しているのですから問題ありませんし、また後ほどうどん屋の専門店が必然から開業されても、元の豆腐屋までがつぶれる事はありません。
しかし(鍛冶屋・豆腐屋・うどん屋も)自力を惜しんで楽をしていたら、その結果(倒産・失業・減収)が出ても当然になります。

しかしそれでも、誰もが出来るような仕事が世間に様々に数多くありますし、またそれらが選り好みするほどの特別なことでもないことからして職業の選択難や就職難もなく、自分がやる気にさえなれば新規開業でも転職・再就職でもフリーターのようなことも可能になります。

また人力・自力を多く必要とするだけに何か事を成すにも周りの人々が集り一致協力する形にはなりますが、そこで誰からも差別・束縛制限・支配されることにもなりませんから、自ずとその人間関係に調和が出てきます。

また選り好みの結果から自力の適応性が低いところへ行く事にでもなれば、それだけ効率が悪くなりますから、その分だけ自らの労力が増えても仕方がありません。
だから自ずと適材適所が決ります。

また海辺で暮らすことになれば四季折々の海産物が身近に取れる楽しみもあるし、それが山里や山中であっても同じような素朴な楽しみがあるし、草原地帯や山岳地帯や極寒の地であっても、そこでの素朴な味わいがあります。
そして何たって高度な特別や差別が無くて似た者同士・同等の集まり・仲間意識だから気疲れすることもなく、その素朴を十分に味わいながらも、誰もがその時々の適材適所で思うがままに(自己責任で)自由に生きてくこともできます。

また好きな者同士が一緒になっても、そのお互いの個性と自由を尊重しますから、当然ながら浮気・不倫・離婚・バツイチ・再婚・裏切りなんて言葉は使われません。
また子育ても特別意識はありませんから執着することにもなりませんし、また周りの大人たちや年長者らが子供らと一緒になって過ごす時間も多いことからして、その親の子育ての負担が相当に軽減されます。

また特別・高度がないだけに教育指導も「読み書きソロバン」くらいで十分ですし、何よりも大人に囲まれて育っていますから見よう見まねで生きるに必要な事柄は自然的に身に付いていきます。
そしてそんな中から自分の個性に目覚めることにもなるし、皆が個性を出し合う協調関係も学ぶことが出来るし、人が喜ぶことで自分も喜べるお蔭様や、どっちもどっちのお互い様の関係を学ぶ事にもなります。

また完全真理を学び知れば、あらゆる有事にも動揺しないで素直に受け止めることが出来ますから、立ち上がりも早くて悲観したり混乱することにもなりませんから、それら有事を前もって恐れることにもなりませんので、またその守り意識を持つことにはなりません。

すなわち完全真理と照らし合わせて私の思いを書いているこのブログと同じような事になります。