孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

他がどうであれ、自らが完全真理に添った実践をするしか(絶対的に)他に道はありません。

2012年04月21日 | Weblog
このブログに訪れている人なら概ね理解できていると思われますが、先ず良い悪で判断しているその矛盾意識・不完全意識でいる限り、その人間関係に自由も平等も調和も無いことに気付いているはずです。
またその不完全意識で何か事を成しても、その結果も不完全ですから、当然ながら良いときも悪いときもあって、その自己満足と不平不満の苦楽・喜怒哀楽を味わうことの繰り返しが続くだけで絶対的な結果には決してなりません。

しかもその不完全意識のままに生きることではなくして、宇宙・神・愛の完全真理を学び知りその実践でもって、その不完全と完全の矛盾・裏表を味わい知る役割とその完全意識になる使命があることを知ります。

そこで実践する事になるわけですが、簡単なようで難しいところがあるのも、それも良い悪いで判断しているからです。
すなわち自分の都合が先んじていて、実際のところ完全な宇宙・神・愛のことは後回しになっているのです。
何たって此れまでの自己拡大やその守り意識を捨ててまで実践するとなると躊躇・思い悩むことになるわけです。
その際たるのが完全真理が自分のもの・本物になっていないのが原因にあります。

その自分のもの・本物になるにもやはり実践からですから、何か少し矛盾している感があります。
だったら尚の事に実践意識で暮らすしか無いのも事実ですが、そこででも、その実践意識が世間に通用しない壁があることから、そこでまた躊躇・思い悩むことになりますが、その原因に「自力・自信」の度合いが隠れていますので、それが守り意識にもつながっていることからも実践が難しくなっています。

しかし完全な宇宙・神・愛を学び知るのが役割使命と自覚しているのであれば、やはり自己縮小の実践で執着のないその生き様を味わいつつ、特別のない自力と自信の安心安全の精神力で、その他力依存や願望のない自力を多く使う素朴な生き方からして宇宙・神・愛の真実・真価を学び知り味わうしかありません。

その特別のない、無理のない、執着のない、思い思惑・理想目的・願望・欲望・良いとこ取りのない、あるがままの素朴・普通のままに生きることによって、たとえその結果が図らずも世間の片隅でひっそりと静かに暮らすような形になっても、その自前の自力と自信と安心安全の精神力で穏やかな安らぎのある生活・生き方で十分に思えているはずです。

そして我が子を「末は博士か大臣か」と思惑・期待することもなく、ただ元気で明るく楽しく自由に生きてさえいればそれで十分に思える意識にもなっているし、夫または妻や親が自力で何とか無事に生きているだけで十分に思えることにもなっているし、何が無くても完全真理の実践が滞りなく出来ているだけで十分な自分に気付くことでしょう。

だから見栄や世間体のプライドを気にしている人達や常識・伝統風習・道徳に縛られて不自由している人達や私は正しいとばかりに自己主張・顕示している人達や名誉名声・肩書き・権威権力・財力を見せびらかして生きている人達や自由平等平和を言いながらも自らが不自由・不平等・不調和の特別意識・差別意識に染まっている人達などを見たり知ったときに、その不完全意識の成れの果て・結末を見たような感じで、それらの人達を羨むことも敬うこともなく、その生き方・生き様に(皆さん)「ご苦労さん」と思える意識に到っていることでしょう。

その苦楽・ご苦労な生き方になっているのか?苦楽のない楽チン人生を歩んでいるのかは、その人の意識が原因のその結果であることは間違いありません、だからこの世の形を意識して生きることよりも、すべてが意識の世界で成り立っているその事実・真実やその裏表・矛盾を我が身でもって学び知るのが人間の役割使命だと確信悟ることが重要なわけです。