孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

孤独感の原因は「他力依存」「他力願望」が強くて、自力・自信の安心安全の精神力が弱いからです。

2012年04月20日 | Weblog
私が世間から離れた過疎地で暮らせる中にその自力と自信の安心安全の精神力があります。
だから自力と自信が少ない人には不向きです。

その中で一番多いのが「寂しい」ですが、その孤独感をもっていれば絶対的に無理です。
その寂しいと感じたり思うことになるのは<他力依存><他力願望>を持っているからです。
すなわち「自力も自信も」ないままに、多くを他力依存とその願望で生きていることの証にもなります。

だから否定・反発心やそれらから守りたがる守り意識も相当に強いものを持っていると思えます。
だから不信感・不安心配やその恐れ・恐怖心も強いはずです。
だからその執着心も強く持ち続けているはずです。
だから(安心安全の)成り行き任せ・自然体で生きるなんて程遠いことにもなります。

ゆえに暗い・汚い・怖いことを嫌うこともも多く、それだけに潔癖症や完璧・正義感・私が正しの自己主張・顕示が強かったり、また高所恐怖症や閉所や暗闇の恐怖心を併せ持っている場合があります。
それだけに快適便利を求めたがりますから、街中の暮らしを田舎に持って来なければ不自由することになります。
またパトカーや救急車・消防車が到着するにも相当な時間が掛かりますから(他力依存が叶うまで)その分だけ余計に不安心配になりますが、それら(全て)が寂しいという孤独感にもつながっていきます。

ゆえに自力と自信の精神力が弱い人ほどにその分だけ不完全意識を強く出すことにもつながっているはずです。
それゆえに自己縮小の実践もままならないはずです。
それゆえに尚のこと他力依存・他力本願を望むことになり、それを叶えてくれる神懸り的な人を特別視して信じたがることにもなります。

ゆえに意識改革につながる「気付き」も少ないはずですし、愛情などの個人意識を完全に思い違いしている場合もありえます。
だから完全真理を学び知っていても、それが自分のもの・本物になるには程遠い感があります。

しかも他力依存で接し触れ合い絆で結び合うことにもなり、その関係に他力願望の思い思惑・理想目的を持つことにもなるし、その他力依存や願望が叶わないことが多いほどに不和・破綻・別離・離縁の裏切りにもなりやすいようです。
・・・自力だけでは成しがたい事を他力を借りてまで成そうとする事を「理想・目的」に掲げていると言われています。

本来なら人を好きになったのなら、何が無くても、その好きな人と一緒に居られるだけで満足・十分なはずです。
なのに何でその関係が崩れるのか? それが(好きになった裏心の)他力依存や他力願望を望むご都合主義の意識に原因があるわけです。
またそこで自分に都合の良いことが少しでも長く続くためにも、相手に気に入ってもらい為の気配り・気遣い・思いやり優しさの愛情・親切を形や言葉に出して「見せる」ことにもなるようです。

しかもその人間関係がややこしくなって不満に思い悩んで思考錯誤・葛藤しているのに、その思いから離脱・脱出し得ないのも、己の他力依存や願望を捨て切れない(守っていたい)その自信・自力の弱さに原因・関係があるようです。
すなわち「寂しい」孤独感を他力依存や願望で癒し合ったり慰め合っている内は何となっているが、それが不調和・不釣合いになると不満不足になり、しかも更に執着することにもなり、その執着が止まることが無ければその感情も進化拡大して出続けるのです。

しかもその不完全意識の人間関係だけは「どうしようもない」のだから、それを何としようと思うよりも、そんな事を気にしないで自分一人でも独自独歩で進んでいくしかないとも書いているわけです。
そして姿形の格好や生活・能力面や感情的に人を好きになることよりも精神面での人間性・個性・相性を見極めてのお付合いであれば長続きもするわけです。
しかも他力依存や願望を持たずに自力・自信でもって成り行き任せにして、その時々の必然ご縁でなる様になっている(過不足のない)結果に満足していれば何の問題もなく穏やかなままに時が経過していきます。

しかしそれを身近な人との関係に当てはめることには相当な無理が生じます。
そこでやはり自由な独自独歩の自力・自信でもって生活しながらも(未熟なだけに)全てを成り行き任せにするしかありません。
そして好きで惚れ込んだ完全真理一筋・一途にして、何が無くても、その完全真理さえあればそれで十分に思えるような意識になるしかありません。

ちなみに孤独と自由が孤独感に変るのは人恋しさにあります。
ところがその人恋しさから自らの自由が阻害されることにもなり、厄介なことにもなり、その苦楽を味わうことにもなります。
しかしその人恋しさよりも「自由」に生きる事を選べば、その自由の真価・価値を十分に味わうことになり、その人恋しさの苦楽・喜怒哀楽を過去に十分味わっていれば、その自由を捨ててまで人恋しさの(不完全でわずらわしい形に)再び戻ることはありませんが、しかしその孤独と自由が孤独感になればその人恋しさに溺れる結果に戻ります。

すなわち感情で生きる事を選んで宇宙・神・愛の「意識・命」の精神・心で生きる事を怠っていることになります。
それを宗教的に言えば「神を選ばないで人間を選んだ」ことになります。
だから完全真理が説くところの「われ神なり」の神意識になることには無理があります。
だから宇宙・神・愛の仕組みによる「新たな」地球の人間(意識・命)となることは不可能でしょう。