孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

苦楽を繰り返しずーッと味わい続けるままに人生が終われば人間の役割使命を果たすことは出来ません。

2012年04月26日 | Weblog
最近の報道ニュースで歩行者の列に車が突っ込み多数の死傷者が出る事故が立て続けにありましたが、その中に通学児童の列に無免許の若者が運転する乗用車が突っ込んだのがありますが、その通学児童を守るために交通量の少ない脇道を通学道路にしていたのが裏目に出たことから、その通学対策を再検討することにもなったようです。

しかも「集団登校」していなければ被害が少なかった筈ですが、その大人が付き添っての集団登校が始まったのも異常者・不審者から学童の安全を守る為でしたから、その対策が被害を大きくした結果にもなっていますから、それも皮肉な結果・矛盾の結果になります。
すなわち「良い」と思っていたことが「悪い」結果を招いたわけですから、まさしく良いこともあれば悪いこともあるという矛盾のあるこの世を象徴した事故でもあります。

そして世間では罰則・法令・対策強化などや我が子が被害者や加害者になることの不安心配やその守り意識が強くなるでしょうし、精神的にも宗教的にも良い悪いで判断してあれこれ言われるでしょうが、(私にすれば)その世間的な意識・認識と完全真理との大幅なズレが気になるわけです。
またそれだけに矛盾のない完全を説く完全真理の真実・事実を学び知ることの重要性を再認識することにもなるのです。

そこで(前兆・象徴)有事の結果形の対策よりも、その結果形の出る大元の原因である人間意識に関心を持つことが人間としての本分なのですが、しかし手っ取り早く対策を講じるほうが見える結果になりますから、(世間的には)見えない精神世界が後回しになるのも仕方がないことですし、しかもその精神世界を人に強要・押し付けることも出来ません。
だからこそ現れた結果・前兆・象徴からして、その人間意識の間違い・矛盾に「自ら」が気付き反省できる精神力が必要なのです。

またその矛盾のある不完全なこの世の形やその人間関係で此れまでイヤになるほどにその矛盾を味わってきているし、その矛盾をどうすることも出来ない・どうしようもない事に悟り気付いたのであれば、あとは精神世界に関心を持って集中するしかありません。

だから身近な人との人間関係も元々は精神世界を共に学び知り気付く(修行)ための必然の形なのです。
だから精神世界を知るために特別な艱難辛苦の荒行苦行修行をする必要も無いのです。
だから過去のイエスや釈迦も自らが修行して、その修行が無駄なことだと悟り知った事実もあります。

その身近な人間関係から多くを学び知ったところでそれは不完全な矛盾を味わっただけですから、その矛盾する不完全な形から脱却して、完全な宇宙・神・愛の意識を学び知る実践が必要になるのです。
そこで不完全に慣れ親しんでいた関係を維持・守ることよりも、それら関係から離れた意識で共に暮らせれば都合がいいのですが、その不完全な人間関係の中には「自由」がありませんから、その自由が無ければ平等・調和意識にも絶対になりません。
だから共に暮らしている形があっても、自力自信の安心安全の独自独歩の成り行き任せに生きることになります。

また不完全な関係に慣れ親しみ過ぎた為にその親しみに信頼・依存することにもなったし、過去の自己拡大からスイッチポンの快適便利な道具に依存する生活にもなっていましたから、その他力依存の良いとこ取りの生活からも脱却して自力・人力を多く使う素朴な生活に戻らなければその他力依存の簡単手短な良いとこ取りから抜け出せません。

ちなみに「自力」を多く使うことになれば生きていることの価値・真価が味わえそれが生きていることの「自信」にもなります。
また特別な自信でその無理をしてまで、その特別な満足・自己満足していた、その過去の虚しさにも気付くことにもなります。
だから確かな実践の必要性を書いているわけです。

また他力依存の良いとこ取りには必ず裏がありますから、先程の事例のように良いことにも悪いことにもなるその矛盾・苦楽を味わうだけで終わり、宇宙・神・愛の完全を知る手立てにはなりません。
その苦楽を繰り返しずーッと味わい続けるままに人生が終わるのであれば人間の役割使命を果たすことは出来ません。
だから「他力依存」「他力願望」「他力祈願」の<他力>をあてにしない独自独歩の自由と自力と自信の精神でもってその精神世界・意識の世界を学び知り味わう生き方が必要なわけです。