孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自然界の中で安らぎ情緒を味わえるのも、その心に安心安全の生活とその時間的余裕があるからです。

2012年04月15日 | Weblog
このブログで山田耕栄さんの完全真理を紹介しているのですが、その耕栄さんの講演会の内容をくまなく伝えているのではなくて、私が理解解釈したその思いを私の事例を含めて書いているものですから、私の歴史でもありますが、何たって自己主義丸出しで生きてきた事実がありますから、その過去の事を告白懺悔しているともとれる内容になっています。

今日は小春日和で暖かく、久しぶりに庭先に出て風呂焚き用の薪割りをしました。
ふもとでは桜が満開ですが、山間部は梅が満開ですのでウグイスの鳴き声が遠くからも近くからも交互に聞こえてきます。
その満開の梅の花びらがひらひらと舞い落ちる近くの風呂場の煙突からは濃い煙が勢いよく出ていますし、庭先の落ち葉や枯れた落ちた小枝を集めて燃やした跡からは燃え残りの残骸から薄い煙がゆらゆらと立ち昇っているのを、少し離れた所からタバコを吸いながら見ていると(変化刺激のない普通のことだが)(男の私でも)如何にも素朴な田舎・過疎地の静寂と心休まる情緒などの、その雰囲気を感じ取ることができます。

その(特別とは違う)(安らぎ)情緒を味わえているその意識になるにも、その意識・心に安心安全の安らかな生活的・時間的な余裕も無ければ、その個性・感性でもって感じ気付くこともなく簡単に見逃し見落とすことになると思います。
ちなみに、たまたま通りがかりに見た情緒・風景は良いとこ取りになりますが、良いことも悪いこともある自然界の全部を丸取りした中でいて、また自分が関わったことからのその情緒・安らぎを感じるほうがより本物になります。

ゆえに自然界を味わうのであれば、その中で全部丸取りの生活をしなければ本物にはなりません。
またその自然界を丸取りしているから、その生活が十分に思えてずーッと続くことにもなるのです。
ところがそれだけでは十分に思えなくなった人たちが他を求めて移住したがるわけです。
また恵まれ与えられた自然を丸ごと味わずにおいて、その良いとこ取りばかり続けた結果がこの世であり皆の今の状況・環境です。

その日々の暮らしといえば、無理や特別のないままに、また定まった起床時間・就眠時間やお風呂や食事の時間帯もなく、しがらみから離れただけに私的な郵便もなく、電話で呼び出されることも、急用で出掛けることもありません。
また予定が有るようで無いようなその時間的制約が少ないパートに出ていくだけですので、ほぼ毎日が日曜日でお休み気分ですから、月日やその曜日や時間にあまり関係なく、また雨が降ろうが雪が降ろうが、寒かろうが猛暑であろうが、その時々に見合った古着を着ておれば十分ですから、特におしゃれすることもなく、お風呂以外で洗顔手洗いすることもなく、またお腹が空けば(賞味期限を気にすることなく)今あるものを食って、そして雨や夜露がしのげるオンボロ屋敷と中古の電化製品があればそれで十分な生活です。

過去の贅沢三昧から離れて第二の人生ともとれるような生き方になって12年目になります。
しかもその後押しをしてくれているような完全真理に惚れ込んでいるだけに尚のこと何が無くても大丈夫なわけです。
すなわち思い思惑の感情で惚れ込んだのはその感情が薄れる事になればそれが裏切り関係にもなるが、精神面で惚れ込むと一途になりますから、それだけで満足して「十分」(絶対的)になります。

また現在のように単身の私だけがその生活を味わい楽しむのであれば、その自分の思いのままにやれますので(その結果がどうであれ)(私の中では)何ら問題にはなりません。
また過去の私も今と同じ感覚でいましたから(自分の思いのままにやるからには)私の身近な人にも同じ思い通りのことが出来るような境遇・環境にするための協力努力も惜しみませんでした。

その多くが金銭的な贅沢三昧であったり、また一緒にいて過ごす時間や遊ぶ時間であったりしますが、それにも自分なりに努力協力してきましたから、当然ながら(世間並み以上に)金儲けにも熱心でしたし、休日余暇に限らずとも仕事中(家業)の暇な時間帯をも家族やと一緒に遊ぶ・一緒に過ごす時間が多かったのは事実です。

そして身近な人と一緒に居て同じ時間を共有しているからには、私一人のことではないだけに、やはり楽しい事に越したことはありませんから、私の自我よりも相手に気遣い意識していたのは(身近な人が喜んでいる様子を見るのが好きなだけに)事実です。
しかしその私の気遣いに相手が気付いていたかは定かではありません。

と言うのも、何の懸念・障害・邪魔もなく当たり前のように思い通りになっているときはそれが当前に思えますが、そこで何か一歩違えれば(思い通りにならなければ)それが不平不満になるのが個人意識の人間ですから、その点から言えば、変化刺激の少ない普通の単なる気遣いには(特別ではないから)わりと気付き難いところがあります。

それゆえに日頃何かと満足しているはずと思っていた身近な人からの愚痴・小言を聞いたりその不満顔を見ると、「何で」そうなるの?となり、その憂鬱さや虚しさを味わうことにもなるのです。
その憂鬱・虚しさから引きこもりやうつ症などの精神疾患にもなっているのです。

それだからこそ、普段道理で自己満足することが無くても、それを不平不満に思うことにならなければ、その人間関係が問題化することもないことからして、その日々の当たり前・普通が「十分に思える」意識になることが<重要>だと何度も書いているのです。

そしてその日々の暮らしの中に多くのお金を必要としない質素・素朴を取り入れれば楽ちんにもなり、その余裕の心・意識・時間から前項のような(特別ではない自然界の)事例を味わい感じることにもなるのです。
しかも欲張り先走り捜し求めた変化刺激の良いとこ取りの自己満足ではなくして、何処にでもあるような普通の事に意識・心が使われ感じ取っただけに、それが心に届く満足になり、それらが積もり積もると「何が無くても」大丈夫の安心安全意識になり、不満や不信感やで<守り闘う>ことになる、その守り意識を持つことのない安心安全の心意気・意識にもなれるのです。

そして歌の文句にもあるように「ケセラセラ」なる様になる、それだけで十分な意識でい続けることが出来れば、此れから先に起こる様々な有事や真坂の有事にも動揺・執着しないままに、不信感・守り意識のない安心安全で生きていけるとして、確信でもって取り組み実践しています。