比較競争で差を付けてカッコよく見せたい欲や自惚れ、自分の存在を差で示して世間に認めてもらいたい顕示誇示欲、それら世間体を気にしたり見栄を張る生き方をすることの気疲れ・ストレスを知り、また世間の伝統・風習・道徳・観念・常識・概念が人を形にはめ込んで束縛制限して個性を発揮できなくする原因であることを学び知りました。
また同じような形である家族・親戚・先祖などの「しがらみ」から実際に離れて学び知ったのが、自らが「しがらみ」に縛られて自由・平等を損なっていたことです。(自由と平等は切り離せない関係にあります)
形には裏表の差や矛盾があるから束縛制限され自由・平等が無くなるのです。
それとは別に自力があれば他力を当てにしないですむし、親しくする人とお陰様・お互い様の関係になれば助け合い互助・協力し合うことも当たり前になってきます。 世間で言う互助・協力には、見栄や自惚れや恩着せや他力本願が含まれているように思います。
そして人は皆孤独で生まれ育ち孤独で死に行くから平等であり自由があること。 すなわち孤独だから自由があることも分かりました。
しかし人は一人では生きていけないので寄り集まり肩を寄せ合いますが、その場所には皆が差の無い平等があり、お互いが助け合い協力し合う関係の「お陰様」の感謝と「お互い様」の調和が必ず必要になってくるのです。
しかし自分さえ良ければの個人意識を持っていますから、まず先に自分の思い判断が優先されて、自分に都合が良いか悪いかの判断に左右され、自分が得をする「良いとこ取り」はするが、反対の悪いことは避けたがります。
だから「同じ人」に対して感謝に思う時と反対に悪く思うときが入り混じり、定かではなくて裏表がある中途半端になります。
すなわち都合の良い時だけの感謝、雨やんで傘を忘れるような意識、すなわち一度感謝したことを忘れると「お陰様」の意識<愛>」ではなくなるのです。
また自分が損をする立場の被害者になったときに相手を許せなくて人を責めますが、その自分だって過去(過去性を含めて)誰かを困らせ迷惑をかけたこともあるし(意識のことですから大きい小さいは関係ありません)、この先何処で加害者の立場になるかもしれないのだから「お互い様」だという認識・意識<愛>がないのです。
誰しもが同じ「お陰様」「お互い様」の意識・愛が無いところ・場所で暮らしていることからして、皆が助け合い協力し合うということが個々の主義主張・思惑・エゴによって分離・使い分けられている現状が有ります。
また、人々のエゴを助長・増長させる結果や、私は正しいの自己満足・自己主張・誇示・プライドにつながっています。
まず基本的に「生きる」ために絶対必要なことで、自分では不可能なことであればそこで他力に頼ればいいのです。
それが互助・協力・お陰様・お互い様の意識が通用しない人で、お金のほうが好きな人であればお金を払うのが感謝になります。
ところが私はお金が少ないから、お金のかかる他力は多く使えませんので自ずと自力が増してきました。
年金生活・質素倹約・エコ生活で自力が付きました。
それと同じくして、お金が縁の切れ目になることもあること、お金がなければ相談・頼りにされないこと、それでも助け合い協力してくださいと便利屋のように使われること、自力を使わないでおいて自分勝手な愛・情を持ち出していること、自力を超えた思惑目的理想を無理やりに思い通りにしたがる欲で動いていること・・・ だからか、私ともども誰もが心底困って助けが欲しかったことが一度も無かったことに気付きました。 皆が皆独自の個人意識を丸出ししていただけなのです。
そして私が「お陰様」「お互い様」の意識で生きていなかったことに気付き反省しているところです。
その生きていく中にあることで・・・ 子孫繁栄を望み子を産み育てたい人が他力を使えば望み道理に妊娠することができます。
それ以外は自力でやれば不平不満を持たなくてすみます。 自力でやれること何かと言い訳・正当化・理由を付けてまで他力に頼み望むから(互助・協力してくれないと)不平不満も出るのです。 また互助・協力してくれない人を批判することは間違っているのです。 まして自力でも出来ることを忙しいからと、自分に都合が良い思い通りにして欲しいと他力に求めることは自分のエゴになるのです。
他力を使えば束縛制限されるが、自力の自己責任で思い通りにやるから自由なのです。
そのエゴではなくて本当に困っていることなら(見栄や世間体・劣等感やプライドを捨てて)誰かに本心から頼めばいいのです、必ず親切な経験者・技術者が助けてくれます。 そして「ありがたい」感謝の心を知ることにもなり、雨やんで傘を忘れるようなことにもならないでしょう。 しかし他力本願の病気治療や他人の臓器移植はエゴになります。
ゆえに親子家族といえども個々のエゴを除けば殆どの互助・協力が無くなってしまいます。
世間的にいう互助・協力し合う形の中でのエゴが束縛制限支配関係や裏切り関係や自己満足・自己主張や誇示欲にもなっていますから、どうやら恋人・夫婦・家族・地域・社会・会社・地方・国家というような形を超えた意識の中に本当の互助・協力・愛が有るような気がします。 また、何気ない行動、判断なしの行動、日常当たり前のごとくに自然体での行動、そこに愛があるから人間関係が何とか続いているようにも思います。
私が単身で暮らし始めて自力で出来ることが増えましたから生きていくことに不自由はありません。
月5万円の年金で十分暮らせます。 それでも軽四・単車・電話・TV・パソコンを使っています。 しかも余った年金があればパチンコにも行けます。
そんな今・現在で何とか満足しているから、自己満足で終わる趣味嗜好娯楽を卒業したので遊ぶお金が要りません。 形や味覚が違っても美味しいもは美味しいと満足できますから、高価高級食材食品や料理屋・レストランから無縁になりました。
お金や物に恵まれていなくても健康に恵まれていれば他はあまり気にしません。
何かを気にするから面白くない生活になるのです・・・ だから人間「意識」がすべてなのです。
また同じような形である家族・親戚・先祖などの「しがらみ」から実際に離れて学び知ったのが、自らが「しがらみ」に縛られて自由・平等を損なっていたことです。(自由と平等は切り離せない関係にあります)
形には裏表の差や矛盾があるから束縛制限され自由・平等が無くなるのです。
それとは別に自力があれば他力を当てにしないですむし、親しくする人とお陰様・お互い様の関係になれば助け合い互助・協力し合うことも当たり前になってきます。 世間で言う互助・協力には、見栄や自惚れや恩着せや他力本願が含まれているように思います。
そして人は皆孤独で生まれ育ち孤独で死に行くから平等であり自由があること。 すなわち孤独だから自由があることも分かりました。
しかし人は一人では生きていけないので寄り集まり肩を寄せ合いますが、その場所には皆が差の無い平等があり、お互いが助け合い協力し合う関係の「お陰様」の感謝と「お互い様」の調和が必ず必要になってくるのです。
しかし自分さえ良ければの個人意識を持っていますから、まず先に自分の思い判断が優先されて、自分に都合が良いか悪いかの判断に左右され、自分が得をする「良いとこ取り」はするが、反対の悪いことは避けたがります。
だから「同じ人」に対して感謝に思う時と反対に悪く思うときが入り混じり、定かではなくて裏表がある中途半端になります。
すなわち都合の良い時だけの感謝、雨やんで傘を忘れるような意識、すなわち一度感謝したことを忘れると「お陰様」の意識<愛>」ではなくなるのです。
また自分が損をする立場の被害者になったときに相手を許せなくて人を責めますが、その自分だって過去(過去性を含めて)誰かを困らせ迷惑をかけたこともあるし(意識のことですから大きい小さいは関係ありません)、この先何処で加害者の立場になるかもしれないのだから「お互い様」だという認識・意識<愛>がないのです。
誰しもが同じ「お陰様」「お互い様」の意識・愛が無いところ・場所で暮らしていることからして、皆が助け合い協力し合うということが個々の主義主張・思惑・エゴによって分離・使い分けられている現状が有ります。
また、人々のエゴを助長・増長させる結果や、私は正しいの自己満足・自己主張・誇示・プライドにつながっています。
まず基本的に「生きる」ために絶対必要なことで、自分では不可能なことであればそこで他力に頼ればいいのです。
それが互助・協力・お陰様・お互い様の意識が通用しない人で、お金のほうが好きな人であればお金を払うのが感謝になります。
ところが私はお金が少ないから、お金のかかる他力は多く使えませんので自ずと自力が増してきました。
年金生活・質素倹約・エコ生活で自力が付きました。
それと同じくして、お金が縁の切れ目になることもあること、お金がなければ相談・頼りにされないこと、それでも助け合い協力してくださいと便利屋のように使われること、自力を使わないでおいて自分勝手な愛・情を持ち出していること、自力を超えた思惑目的理想を無理やりに思い通りにしたがる欲で動いていること・・・ だからか、私ともども誰もが心底困って助けが欲しかったことが一度も無かったことに気付きました。 皆が皆独自の個人意識を丸出ししていただけなのです。
そして私が「お陰様」「お互い様」の意識で生きていなかったことに気付き反省しているところです。
その生きていく中にあることで・・・ 子孫繁栄を望み子を産み育てたい人が他力を使えば望み道理に妊娠することができます。
それ以外は自力でやれば不平不満を持たなくてすみます。 自力でやれること何かと言い訳・正当化・理由を付けてまで他力に頼み望むから(互助・協力してくれないと)不平不満も出るのです。 また互助・協力してくれない人を批判することは間違っているのです。 まして自力でも出来ることを忙しいからと、自分に都合が良い思い通りにして欲しいと他力に求めることは自分のエゴになるのです。
他力を使えば束縛制限されるが、自力の自己責任で思い通りにやるから自由なのです。
そのエゴではなくて本当に困っていることなら(見栄や世間体・劣等感やプライドを捨てて)誰かに本心から頼めばいいのです、必ず親切な経験者・技術者が助けてくれます。 そして「ありがたい」感謝の心を知ることにもなり、雨やんで傘を忘れるようなことにもならないでしょう。 しかし他力本願の病気治療や他人の臓器移植はエゴになります。
ゆえに親子家族といえども個々のエゴを除けば殆どの互助・協力が無くなってしまいます。
世間的にいう互助・協力し合う形の中でのエゴが束縛制限支配関係や裏切り関係や自己満足・自己主張や誇示欲にもなっていますから、どうやら恋人・夫婦・家族・地域・社会・会社・地方・国家というような形を超えた意識の中に本当の互助・協力・愛が有るような気がします。 また、何気ない行動、判断なしの行動、日常当たり前のごとくに自然体での行動、そこに愛があるから人間関係が何とか続いているようにも思います。
私が単身で暮らし始めて自力で出来ることが増えましたから生きていくことに不自由はありません。
月5万円の年金で十分暮らせます。 それでも軽四・単車・電話・TV・パソコンを使っています。 しかも余った年金があればパチンコにも行けます。
そんな今・現在で何とか満足しているから、自己満足で終わる趣味嗜好娯楽を卒業したので遊ぶお金が要りません。 形や味覚が違っても美味しいもは美味しいと満足できますから、高価高級食材食品や料理屋・レストランから無縁になりました。
お金や物に恵まれていなくても健康に恵まれていれば他はあまり気にしません。
何かを気にするから面白くない生活になるのです・・・ だから人間「意識」がすべてなのです。