孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

愛のある常識と矛盾と妥協の不完全な常識と、虐めの仕返し制裁や拉致・戦争・テロとの事実関係

2009年07月12日 | Weblog
人それぞれに常識をたくさん持っていますが、良いと悪いで判断して差を持った人の常識の中には差別があり、良いと悪いの裏表の矛盾が必ずあります。 
そして誰も間違った常識は持ちませんから、自分の常識は正しいと思っています。 すなわち正しいと思っているから常識として持っていられるのです。 
その「私は正しい」の常識が正義感にもなります。 だから正義感には矛盾があります。
その際たるものが戦争やテロで敵対するもの同士が正当性を正義や聖戦に掲げて、それを守るために戦い殺し合い大勢を殺して戦果を挙げたものが英雄やヒーローになっている矛盾があります。

その例えで小さな矛盾といえば「いじめ」に見られます。
過去にいじめを受けたものがその相手や他の者を虐め返すことがあったり、虐められた腹いせに仕返し復讐することがあるように、虐めの被害者が加害者にもなる矛盾が有ります。
だから虐めはいけない、虐めの仕返しはいけないと常識で言っていても、いざ自分がその被害者になったら虐め返すことを正しいとして実行したがります。 その大きなものとして先ほどの戦争やテロに加え拉致問題がありますが、その他の犯罪事件や搾取詐欺事件などにも見られ、仕返し報復制裁・科料を裁判で決めています。

すなわち虐めはいけないとして、だが虐め返すのは正当化されているという妥協と矛盾があります。
そして妥協で大きなことはいけないが小さなことならかまわないとして常識化されているために小さなことが見過ごされているのです。
だから虐めでもそうですが、小さなことが集合しだすと慌てて対策を講じますがそれではもう手遅れになっているのが現状です。
そのお手本・見本として有史以来・昨今の世界に現われている全ての問題に見られます。

すなわち小さいうちから元を断たなければ次第に大きくなっていくことを常識では知っているがなかなか実践する人がいないのです。
また「人を責めない、自分を責めない」「未練・後悔・執着を持たない」「人を許しなさい」「人を認めなさい」を常識で知っていても実践しなければ何の意味もありません、「絵に書いた餅」同然になります。

すなわち常識であっても行為行動が無ければ無いに等しいから本当の常識・愛とは言えないのです。
言うだけ、聞くだけ、思うだけでは不完全で実在・愛にはなりません。
また「大きい小さい」に違いはあっても、それに「差」を付ければ、その差に矛盾がつきものですから迷い混乱が起こるのです。

愛のある新しい常識
・・・「良い悪い」(善悪・優劣・損得)の差を付けなければ自由平等・平和になる。
・・・何事からも「守」らなければ「戦」わないで済む。
・・・すべてに形の違いが有っても差は無い。
   形が表であるとしたら裏は見えないから想像して思うしかありません。
   その個の思いに良いと悪いの差をつけたのが「個人意識」です。
・・・表の「私は正しい」が裏の「不信感」「不安・恐怖」を生み「守り戦う」ようになる。

自分勝手に思い想像したことを自分の中に実在する形にするためには表と裏が必要になりますが、その表裏も想像ですから実在には絶対なりません。 すなわち思い思惑想像ですから非実在であり、実在しないものは不完全となります。
だから想像・判断で差をつけないで事実だけを見る「そのまま、このまま、あるがまま」の意識が完全であり、完全で実在するものが愛になります。
すなわち、この世で完全で実在する万物・すべてが「愛」なのです。 すなわち愛以外は実在できないのです。
だから神・万物同様に人間も完全で実在する愛意識の表現者なのですが、ところが個人の思い思惑判断・差を挟むから不完全な意識となり、完全な愛を表現できないから「この世」の裏表のある形でしか見られない人間界・三次元界にいるのです。