孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人は生まれながらにして「自由」「平等」、それを放棄しているのが自己意識・個人意識です。

2009年07月03日 | Weblog
人間は命のある意識体ですから、意識した通りに自由に生きることが出来ます。
ところが良い悪いで判断して分け隔て差別して平等ではなくなり、あれが良いこれが悪いと判断して自らの思い行動を束縛制限して自由に生きることが出来なくなってきたのです。
すなわち「自由」「平等」を自らの意識が放棄しているのだから、国家社会などの他の原因・責任ではないのです。

また個人の意識で自分勝手に「見たいように見て」「思いたいように思う」ことができますから、天国に思えれば天国になるし地獄に思えれば地獄にもなるように、他と比較して思いたいように思えるのが人間という意識体です。
だから他から差別されていると思えば差別されていることになり、他と差別していると思えば差別していることになります。
すなわち、無いものを有に思うことも、また逆なことも自由自在に思えるわけです。

すなわち、個人の思いは事実と関係なく自由自在に誰もが思うことが出来ますから不確かで不完全です。
また、個人の思いは頭の中で思い描いた想像・空想ですから非実在になります。
そんな不完全で非実在の個人意識が確かに実在しているように錯覚したり、そう思うことが正しいと思い込んでいたりするから、事実だけを見ないで良い悪いで判断することが「正しい」ことになり、それらがいつの間にやら常識化されたり道徳・伝統・風習になったりして、それらを守り、また反するものと争い闘うことが正しいことにもなり、やがてそれらの形に自らが束縛制限支配されるようにもなりました。

その形あるものに(型枠にはめ込まれ)束縛制限支配されれば自由も平等もありません。。
それが国家社会・地域・家族、夫婦や親子関係、恋愛・恋人関係という形で束縛制限されているのも事実です。
個人の思想主義は自由ですが、多数決の差で主義主張を形作れば自由平等は無くなり束縛制限支配されますので、それら形を裏切る裏切り関係が必ず出てきます。
だから自らが束縛し合い、自らが裏切りあい、共に被害者・加害者になる矛盾した関係がこの世にあるのです。

とは言っても、この世から束縛制限支配する形を無くすることは出来ません。
しかし、自分の意識の中から束縛制限支配関係の意識を消して、自由平等意識を持つことは出来ます。
だから(他がどうであれ)観念・概念・愛情で束縛することなく、自らが自由平等の愛意識・良い悪いで判断しない神意識を知り学び実践していけば自ずと自由となります。