時間を17日戻して、7月8日。
午後9時15分関西国際空港発ハワイアン航空HA450便の機上の人となった我々は、およそ8時間後の現地時間8日午前10時15分、ホノルル空港に降り立ったのであった。
今回は入国審査も無事通り、(過去には拳銃やら薬やらを問われ、特別なおもてなしを受けたこともあったのだ)旅装を解いて2日目。
ビショップ・ミュージアムを訪れた。
このミュージアムは、カメハメハ大王のひ孫、バニース・パウハヒ・ビショップ王女がなくなった後、夫のチャールズ・ビショップ氏が1889年に設立したもので、正式な名前を
Bernice Pauhahi Bishop Muesum
という。
ホールに入って左には「カヒリ・ルーム」というスペースがあり、19世紀初期のハワイ王族の肖像画と王家のシンボルである、「カヒリ」(鳥の羽で作られたのぼりで最近は高いところの埃払いに使われている..というのは嘘でそんな形をしている)が展示されている。
この「カヒリ」は、祝祭事などで王家の人々の位置を示すものとされており、まさしくヤマトの戦国時代の旗指物の機能の一部と同じだ。
当初は、王家伝来の美術品だけだったが、現在は、ハワイと太平洋の島々に関する資料が25,000点集められているという。
吹き抜けのホールに展示されているこのクジラは、反対側に回ると臓器模型がみられる。
さて、
ここで爺は、宮古島の古代人が洞窟を出て農耕を始めたころ住み始めたであろう展示物を見せられることになった。
これは溶岩で作られた石垣だが、まさしく風の強い島では琉球石灰岩を積み上げ、風よけにしながら作られたであろう竪穴住居の原型を見た気がしたものである。
縄文も弥生も何の痕跡もない島の歴史に誰が住居の形式を持ち込んだのであろうか、ホノルルの博物館で宮古島の歴史に思いをはせる爺であった。
もはや、ハワイは買い物の場所ではない。