しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

狩俣にて

2010-04-28 15:31:26 | 宮古史

宮古島の北部、来間大橋(間違いです。正しくは「池間大橋」です。13年後に修正しました。)

の手前に「狩俣」というところがある。

聡明な皆様には「タコ丼」の記憶生々しいことでありましょうが、もっと聡明な方は「その『かりまた』ってインドネシアのカリマンタン島と関係があるのとちゃうの」と突っ込むところでもありましょう。

わかりません。隣の島尻のパーントゥの仮面がそっち方面のものであるという説や狩俣の地名をめぐる説や竜宮伝説など東南アジアの海洋民族とのつながりを示唆することはありますが仮説のみで定説とはなっておりません。

この集落の入口の門(東門:西門、北門とともに14世紀ころ預言者「クバラパアズ」が築造したといわれている)が2年ほど前、何者かに破壊され今回再現されたというニュースで立ち寄ってみました。重さ6トンのトパラーチンと呼ばれる大理石一枚岩が載せられた石の門で幅3.1m、高さ3.3mは見事に建築限界を冒しています。(ちなみに4㌧以上は通行禁止)

           

なお、残っている北の門は「ツカサヤー(だったかな?神女の意)」しかくぐれず、勝手にこれをくぐったものは二度と現世にには戻れないそうであります。これも確かではありません。試してみる気もありません。

この門のそばにはいわくありげな井戸があり、まだ使えそうな雰囲気を持ち続けています。

この井戸の伝説。

昔、久米島の兄妹が夫婦になり、怒った父親によってこの地に流された。

水を求めてさまよっていると羽根を濡らした鳥が飛び立ち、その場所には井戸があり九死に一生を得て、それ以来この地域の井戸としてつい最近までつかわれていたそうな。
これも信用してはいけない。


           

水といえばなめてみる、穴といえば覗いてみたくなるのが人情で、深さ5~6mの底には水がかすかに湧いておりました。でもなめられませんでした。

           

どーして宮古の伝説は不倫だ近親相姦だ蛇の子を宿しただとまともな恋が聞こえてこないのでしょうか。

明るいおつきあい伝説を探しに行きましょうね。

ってところで、地区を縦断する幹線道路わきに立つ手書きの看板。

           

大阪のO川夫妻にバカ受けだったもので、トライアスロンに出場する先生を応援する生徒の看板。

遠目かつあくまで初見の印象ですが、どこか卑猥さを感じてしまったのは我々の眼が曇っているからでしょうか。名古屋の○ルスの看板のような。狩俣中ごめん。