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しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

海猿達の休息

2012-09-24 17:35:31 | 宮古史

平良港なう。

いつもは貨物船が係船される岸壁に海上保安庁の巡視船が休息中。

       

こちらに3隻。

       

こちらに4隻。

ほかにも1隻。合わせて8隻。

尖閣周辺には約50隻の巡視船が出動しているらしく、給油・物資積み込み、つかの間の休息などで石垣・宮古等へ入港しているようです。

そもそも琉球は、薩摩藩と清国の二重支配を経て、1880年には「沖縄本島以北を日本の帰属とし、宮古・八重山諸島以南を清国の帰属とする」琉球分割条約の締結が日清両国の間で決定されたのですが、清国側が調印せずそれが締結されることはなかったのです。

分割を認めた背景には、それまでの日清修好条規に、日本商人が中国国内で欧米諸国並みの商業活動ができるよう条文を追加することを認めさせようとするもので、南西諸島は日本によって、この時と先の戦いの2回、棄民されかかり、されちゃったともいえるのですわい。

また清国が調印しなかった背景には、南西諸島を手に入れることの見返りに日本側のみに利益がある条約を締結することへの逡巡、同じころロシアとの間で中国北西部の領土問題で緊張状態にあり、日露と清国の間で微妙な駆け引きが繰り返されていいたのですね。調印時点での情勢は、清露関係が好転し、清国が自国に不利な条約を結ばなくともいよい強気な状態にあったため、ドタキャンしたということらしいです。

この時の数日間の国際情勢が、今、住んでいる宮古島を含む南西諸島が日本に帰属することを決定したということなんですね。

1880年時点では、南西諸島に尖閣は含まれていなかった(どこの国のものでもなかった)のですが、1885年日本政府が上陸調査し、他国の支配が及んでいる痕跡がないとして、日本の領土であると高らかに宣言したのでした。

というのが、しょう爺風「そーだったのか日清政粉、チキンな心が国を決めた」でござる。


宮古島の湧水その2

2012-08-20 17:04:04 | 宮古史

湧水シリーズその2は、市の中心市街地の北部にある砂山ビーチにほど近いところに位置する

「成川井」  読み方は「ナズゥカ ガー」

この井戸は宮古島の地形と地質を理解する上でモデルとなる爺おすすめの井戸です。

島に降った雨は、地表の保水力が弱く弱アルカリ性の表土(隆起サンゴ礁石灰岩土壌:島尻マージ)を通って、その下の琉球石灰岩に達します。

この琉球石灰岩は、小さな隙間が無数にあるサンゴ礁の働きで形成された岩で、雨水を浸透させます。

浸透した雨水は、その下にある「島尻層」と呼ばれる不透水性の岩盤に達します。

浸透する場を失った雨水は、岩盤の上を右往左往しながら地下水流となり、島尻層が海岸部で露出しているところで最後は海に向かって流れ出ます。

この地下水流が断層によってできた水盆を下流部でせき止めたのが後に出てくる「地下ダム」という技術なのですが、ここではその地下の様子を目の当たりにできるというわけです。

キビ畑の中の農道を進むとこんもりした林の切れ目にその入り口はあります。

ここを進むといきなり鍾乳石が現れます。

その下の岩盤が島尻層でこの上に地下水流が流れています。この島尻層は、泥岩層でその源は中国大陸東海岸に堆積した砂や泥の層でその厚さは1000m以上になるところもあるといわれています。

この泥岩層が隆起してサンゴの生息条件が整い、160万年くらいかけて隆起沈降を繰り返しながら堆積したサンゴ礁が隆起したのが南西諸島誕生の経緯です。

この井戸は今も清水が湧き出ており、地域の人たちが貴重な水を信仰の対象として守ってきた歴史があります。

この井戸も史跡指定や文化財指定もなく、見学者が自分で調べるしかない自主学習タイプのみどころです。

といってもたいていの人はここに来れないからいいのか。


宮古島の湧水その1

2012-08-17 18:03:36 | 宮古史

8月26日日曜日に「夏休み親子湧水巡り」というイベントが開催されます。

主催は爺が所属する「歴史・文化ガイドの会」

開催に先駆けて案内する湧水を事前公開!!!

第1の湧水は

「白明井」    読み方は「スサカガー」

市街地の北東部にある井戸で16世紀ころには使われていたという記録(この島で記録が残っていることが珍しい)がある。

西暦1522年のことである。

八重山の与那国は、鬼虎という身の丈1丈5寸(1丈は3.03m)もあったとされている首長が治めていて、自分の力を過信してしまい首里王の命令に従わず朝貢を怠るという不敬を犯してしまうわけ。

そのため王府の命を受けた宮古島の仲宗根豊見親がこれ討伐に出向いたとさ。

さすがに豪傑も色仕掛けと酒に酔わされて首をはねられてしまうのね。

その結果、鬼虎の手勢のものと一人娘(17歳)は捕虜として宮古島に連れてこられたさ。

この鬼虎の娘は、仲宗根豊見親の嫡子の妻として迎えるということで連れてこられたのだけれども、すでにこいつには妻がいて、結局下女としての扱いをうけることになったさ。

そしてその娘は、底の抜けた桶を与えられこの井戸から水を汲んで来いと命じられても無理でしょう。

ついに身動きも出来ぬほどやつれた姿で悶え死んだということね。

これがその井戸。

        

ってあーた、どこにもそんなことは書いてないし、使われなくなった井戸としか思えないでしょう。

まあ、島にあるほとんどの史跡、遺跡はこんな状態で、この湧水巡りは

宮古島が抱える遺跡保存の問題を追及するツアーになる気配濃厚なのでした。

 


またまたお墓のはなす

2012-01-06 18:14:58 | 宮古史

今日も20℃そこそこの雨天というらしくない天気でございます。

土日もグズグズと雨模様。こういうときはお墓に限る。

平良港を望む小高い丘に、珍しい作りのお墓がございます。

お墓に門があるのも珍しいのですが、その門は通常、石を積み上げた石垣の上に平たい石を載せてつくられます。

なんとこのお墓は、このあたり一帯の石灰岩の層をそのまま掘り下げて造られたのです。

        

ですから岩盤にあけられたトンネルの様を呈しているのです。

たくさんの人夫がつぎ込まれ、掘りだした石の1升分に粟1升が労賃だったという事から「ツガ墓(升墓)」といわれるようになったという説がありますがどーだか。

墓全体が四角く掘られ、マスのような形をしているからというのが本当のようです。

        

このお墓は、1685年に砂川というところの頭であった昌信という人をはじめとする益茂(マスモウジ)氏一門の墓で、その後も6人の頭を輩出した有力な系統だったわけです。

島には今でも有力者の立派な墓が残されています。

そこで爺は、治水の必要なし、雨水をためることもままならない、小さい島の交通は踏みわけ道があればよし、という、島の主要産業は有力者の墓づくりであったのではと推測するわけです。宮古役人の俸給は粟だったことから、労賃はほとんどが粟だったようですが。

はなすはコロッと変わって

昨日は、島の成人式でした。知人の長女が20歳を迎えるという事でお祝いに駆けつけましたが、やはりオトーリでお祝い。本人は参加することなく勝手に盛り上がる、いつもどおりの大宴会があちこちで開かれておりました。

この後も旧正月だ、十六日祭だとあって、春には合格祝い。お身体に気をつけて。


空中巨石墓

2011-12-21 17:17:20 | 宮古史

墓のオッカケとしては見逃せない事がおきています。

14世紀から15世紀にかけての宮古島は、目黒盛系と与那覇系の2大勢力がそれぞれ、島の農産業と貿易を押さえることによって支配していたとされていますが、その与那覇系の支配者の一人に大立大殿(ウプダティ・ウプトゥヌ)という人がおりました。

この人は、16世紀に入って宮古島を統一した仲宗根豊見親の育て親だった人で、幼いころから才能を見抜き、そばにおいて政務の一部をまかせていたといいます。

この、大立大殿(ウプダティ・ウプトゥヌ)の墓が平良港を望む崖っぷちに建てられておりました。

その様式は、「巨石墓(ミャーカ)」と呼ばれており、巨石を用いて長方形に石積みを建てめぐらし、内部に石室を設けてふたをかぶせた構造で、北九州や朝鮮半島の史石墓との関係が深いといわれています。

いま、この墓が都市計画道路の工事によって中に浮いています。

       

車道部分にはかろうじてかかっていませんが、およそ2メートル近く切り下げたため、歩道からは見上げることとなっています。

どう処理して残すのかが見ものですが、ウプトゥヌさんの魂もケツのすわりが悪く落ち着かんことでしょう。

祟りがないと良いのですが。

       

明日はいよいよ冬至。たーけのモニュメントとなりかけているサンピラーに夕陽は降り注ぐのでしょうか。