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しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

麻姑山書房の引越し先

2015-07-27 17:53:35 | 宮古史

もうこれは宮古史に名を連ねるべきです。貴重な文化の損失です。

3月16日の記事にアップした宮古島「麻姑山書房」の解体。面妖なツタの絡まる怪談話の建物ではありました。

現在は、更地になって都市計画道路として拡幅工事が始まるまで、駐車場として供されています。

       

奥のプレハブには売り物の古書がいまだに備蓄されております。

さて、この書房今はどこにあるかというと       さすが朝7時、野球部朝練には出くわさなかったのですが。

      

今年の夏の甲子園出場を一番早く決めた高校「興南高校」5年ぶり10回目だったかな?宮古高校も準決勝まで勝ち進み、よもや、の期待を持たせましたが残念でした。

この興南高校から徒歩で2分。閑静な住宅街の一角に突然現れる、普通の家。

       

と思いきや、

       

やはり面妖感はぬぐえない看板と店主。

の看板はまさしく宮古島にあったもの。

店主田中さんはシャイな方でこちらを向いてくださいという注文に、「いやいや」と水遣りの手は休めてもらえませんでしたが。

文庫本と郷土本一部、全体の5分の1ほどを那覇に持ち込んで開店したとのこと。

先ほどの駐車場の奥のプレハブに20万冊といわれている書籍の8割がまだ眠っているわけです。

開店時間と爺のスケジュールが合わなくて店内には入れなかったのですが、会話中に「ああ、あなた多良間島の......」

今度はこちらが「いやいや」と「多良間には1度いったきりです」

次回はぜひ店内で歴史本漁りを。


しょう爺の宮古島史 2.人頭税とサトウキビ栽培

2014-02-17 18:06:43 | 宮古史

しばらく続いた雨でサトウキビの収穫ができず製糖工場が操業停止となっていましたが、ようやく再稼働したようです。

その原因は、生産者の高齢化で最近増加した機械によるキビ刈り(ハーベスタといいます―ザリガニみたいです)が雨で稼働できなくなったからです。

         

こちらは手刈で刈り取られたキビの束。

         

一束が500㎏から600㎏。10束ほどありますから、今年の価格ではこれ全部で11万から13万円ぐらいでしょうか。

1トン当たり21,800円のうち国の交付金が16,320円。砂糖輸入の関税が財源です。

TPP協定に敏感になるはずです。

このあたりは前にも書いたかなぁ。

このサトウキビ、宮古島で栽培され始めるのは明治に入ってから。それまで栽培が禁止されていたのです。

それは、琉球王府が宮古島に課した税制と無縁ではないのです。

 

「人頭税」正しくは「定額人頭配賦税」は、宮古島において1659年から1902年まで課せられた税制です。

「人頭税」は、ヨーロッパやインド、中国などで導入されてきた税制で、その多くは、すべての統治される人に一定額の税金を課するもので、支払い能力に関係なく支払う義務が生じるものだといわれています。

それに対して、宮古島をはじめとする先島で導入された「定額人頭配賦税」は、島から琉球王府への年貢高を人口の増減にかかわらず、定額(粟換算で3,367石、内訳は粟納で1,150石、反布納で4,998反)で治めるものでした。

この粟と布の物納の時代には、島の中での通貨も粟が使用され、いわゆる換金作物ではなかったのですね。

また、年貢として粟を収めていたために、ほかの作物を作りたくても粟の栽培をやめるわけにはいかず、効率の悪い畑作を続けなければならなかったのです。

そこで、換金できる作物としてサトウキビの栽培を進め、金銭で納税したいと考えるようになったのですね。もちろんこれには寄留商人と呼ばれる他府県の実業家が、宮古島に金儲けの道を見つけ後押ししたことはいうまでもありませんが。

すなわち、サトウキビに代表される換金作物の導入には納税制度を変える必要があった、定額人頭配賦税制を廃止する必要があったということですね。

この人頭税廃止運動にかかわった農民リーダーの多くは、後に大土地所有者に成長し、寄留商人は宮古島の商業の中心となり、島の近代化が進んだといわれております。

めでたしめでたし。


宮古島の森をどーする

2013-11-25 18:12:22 | 宮古史

昨日、宮古島の神を畏敬し、神の鎮まる森を守ろうと20年前に、「宮古島の神と森を考える会」を立ち上げた民俗学者 故谷川健一氏を見送る会に出席してきました。

氏は、今年8月、92歳で逝去されました。

個人的にもお付き合いはなく、氏の著書を読んだこともない爺ですが、スケッチオブミャークの中に歌われた神歌と伝統祭祀の復活に奮闘してこられた方と聞き、あふれる好奇心で顔を出してきました。

          

氏の宮古島に関する代表的な著書のひとつに「神に追われて」と題する著署があります。

この著書は、宮古島のシャーマン「カンカカリャ(神懸り)・ユタ」の成り立ちについて書かれたもので、本人によるとユタになる過程において

「平凡な一介の主婦または娘が、ある日突然神の声を聴く、しかし彼女の世俗的な夢や希望はその声に逆らう、まだ自分は世俗的に色々な夢を見ており、神の命から遠ざかろうとする。しかし、それを神は許さない。それが神に追われるということだ」

すなわちなりたくてなりたいわけではなく、神の道に入るための試練を受け続ける、最後には神に許されるか自らの命を絶つかまで追い込まれるということらしい。

その間は、狂気の沙汰で、肌足でボロボロの着物をまといながら宮古島中をさ迷い歩き、塞がれた井戸があれば開けろと叫び声をあげ、宮古の根を掘り起こせとわめき歩く等いわゆる気違い扱いされるわけですね。

最後には、ある御嶽の前に行くと頭のてっぺんにビビッと響く音を感じ、自分の神を発見するということです。

そのようなカンカカリャの一人である根間忠彦さんという方が出席され、魂の弔いで見送りました。

           

見かけは普通のおじさんですが、宮古島では有名なユタの弟で、自らも学生時代にカンダーリと呼ばれる神による体験を経験しています。

           

宮古島の森林率は全国の7割に対して2割を切っています。大きな森を住まいとしている神々にとって居場所を失っていくということを意味する開発は伝統的な祭祀の危機にもつながっている現状を変えようとしているのがこの会の趣旨です。

今、島ではこの会をはじめとして植林、育林行動が芽生えています。

公共では、防潮・防風・防災林造成事業という名を冠して。


宮古の湧水 その5

2012-11-16 17:45:35 | 宮古史

夏休みから延期になっていた「湧水めぐり」

いよいよ日曜日に開催されますが、天気予報はあめ。

またまた延期でしょうか。

今日ご紹介するのは、島の東海岸、浦底漁港入り口にある

「野城(ヌグスク)ガー」

実はこれから久しぶりにオトーリを回しに行くので、手抜きです。

この説明版を読んでいいただいてこの湧水の貴重さをお感じください。

説明にある石積みと泉の出口ががこれです。

     

泉には階段を使っております。

     

では日曜日晴れますよーに。

オトーリ 行ってきまーす。

 

 


ネフスキー シンポジウム

2012-09-26 17:41:39 | 宮古史

宮古研究の先駆者であるロシアの東洋学者『ニコライ・A・ネフスキー』(1892-1937)という学者がいました。

このほど、その生誕120年を記念するシンポジウムが開かれました。

          

ネフスキーさんは、ロシア帝政時代のペテルブルグ大学から日本に派遣された官費留学生で、1915年から14年間の日本滞在中3回宮古島を訪れ言語・民族などの研究資料を蒐集しています。

          

その成果としては大きく3つあり、宮古諸島の民族および口承文芸に関する研究『月と不死』(1971、東洋文庫)、宮古語の歌謡、民話、ことわざなどを記録した『宮古諸島の口承文芸』(訳本「宮古フォークロア」1998、砂子屋書房)、宮古諸語をロシア式の音声記号で表し、地域別の表現の違いも含めアルファベット順に約5000語を整理した手書き辞典「宮古諸島の語彙研究のための資料集」(早稲田大学図書館に寄贈されたマイクロフィルムから製版出版された「宮古方言ノート」2005、平良市教育委員会)でありまする。

とにかくこの方、耳が良かったと見えて、小生3年いても聞き取れないミャークフツを数か月、3回の滞在で各島を巡り、500語以上の言葉を理解していった人です。

またロシア語は女性名詞と男性名詞をはっきりさせないと気に入らないみたいで、名詞ひとつづつそれは女か男かと聞き続けた結果、特に役職などに関してはそれまでの思い込みで決めていたことがはっきりしたということもあったようです。

これらの研究は、国内の宮古研究者に強い影響を与え、島には顕彰碑が建てられています。

       

このネフさんは、1918年には小樽高等商科学校(現、小樽商科大学)のいロシア語教師として就職し、アイヌ語の研究もしています。この後道産子の女性と結婚しますが、1937年のスターリン粛清で夫妻とも処刑されました。しかしながら、フルシチョフによるスターリン批判の結果、1957年には名誉回復がなされています。

この二人の娘エレーナさんはご健在だそうで、お孫さんとともに2002年に上の顕彰碑除幕式に出席されています。

ここでも何故か北海道つながりがあったわけで、不思議な縁を感じながら、あらためてこの島の言葉の難しさを感じております。

さて

このほど市町村合併後初の「宮古島市史 第1巻 通史編」が刊行されました。

これから10年をかけて「祭祀編」「自然編」「災害編」等を発刊するそうですが平和な10年でありますように。

          

厚さは4.5センチメートル。枕にはちょうど良い。