あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

沖縄旅行10 旧海軍司令壕跡

2023-05-09 01:02:00 | 沖縄旅行 2023
 沖縄旅行3日目 実際の行程とは順序を変えています。
 
 旧海軍司令壕跡公園
 ガンカラーの谷に行く前にここに来ました。
 
 なぜかここだけ手元にパンフレットがありません。わたしの知っている乏しい知識と、ネットを頼りにまとめましたが、ここでは沖縄戦の経過や惨状を述べるのが目的ではありません。史実については曖昧で誤解もあるかもしれないことをお断りしておきます。
 
 
 
 長い階段を上った先にある慰霊塔。
 ここは旧海軍司令壕跡公園です。

 
 沖縄旅行の計画にあたって、娘と私は悩んでいました。 第2次世界大戦で唯一、住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄。それに触れずにはいられませんが、気が重かったのです。
 しかし、「沖縄でどこへ行きたい?」と聞いたときトラオは即座に「旧海軍司令壕跡」と答えました。牛に引かれてではありませんがトラオの希望に応えるようにしてここを訪問場所に加えました。 
 
 階段を上がると海の見える広場に来ます。 
 
 慰霊塔や仁愛の碑の横を通り

 
 ビジターセンターへ。

 
 ここは公園として遊具や昆虫採集広場などが整備されているそうです。さほど広くはない駐車場は満車ではなく、ただ広々と静かでした。
 
 壕は旧海軍関係者によって遺骨収集され、公園として整備された施設だそうです。児童生徒向けの平和教育なども行われているそうです。
 重い気持ちで入ったものの、悲惨な戦闘の写真はありませんでした。意図的なのか、戦場の写真そのものがないのかわかりませんが、ほとんどが降伏後の住人の姿、収容所の暮らしなどでした。米兵との交流を写した写真も多数ありました。それはそれで考えさせられることがたくさんありましたが。

 
 歳をとると若い頃には見えなかったものが見えてくるものです。70年間の経験が共感と同情とを増幅されるのです。 親を失った子の写真を見ればそれが幼かったわが子に重なり、老人を見れば頼る者もなく捕虜になったその不安がわがことのように思えます。残されたこの人たちはこの後平穏な人生を送ることができたのだろうか、一人一人の行く末が気になりました。
 昔、沖縄旅行をした時はひめゆりの塔ができたかできないかの頃で、旅行社の作ってくれた行程を貸し切りタクシーでまわりました。その中に戦争に関わる施設はありませんでした。けれど、その時運転手さんが話してくれたことを今も覚えています。沖縄の人で、一人でも家族を失くさなかった人は一人もいないと。沖縄戦では住民の四人に一人が亡くなっていたそうですから。ここに写っている人たちも悲しみを背負って生きたに違いないと、勝手に想像して目の奥が熱くなりました。
 
 私がもっとも心を打たれた写真
 


 難民キャンプなどの写真でも見られる青空教室です。どんな状況下でも学び続けようとするのは世界共通なのかもしれません。いや、困難な状況だからこそ、祖国再建の決意を持って学んでいたのでしょう。学びは大人にとっても子どもにとっても希望の象徴のように思えました。
 
 
 展示を見ながら下へ下へと下りて行きました。



 見学者は多くはありませんでした。その中にトラオと同じ年頃の少年がいて、誰よりも熱心に見入っている姿が印象的でした。

 
ここからは地下壕へ入ります。

 
 3000人の兵士によってつるはしで掘られたという壕です。現在公開されている部分は300m、まだ公開されてない場所があると言うことです。



 当時のままの形状で保存されています。
 わたしは同じような施設をベトナムで見ました。ホーチミン市の大統領府、現在は迎賓館として使われているその建物の地下に、非常時に備えた部屋がありました。その時感じたことをこのように書いています。
 
「それはなんとも奇妙な感覚を呼び起こさせる施設でした。 わたし自身は戦争を知らないにもかかわらず、何か、今自分が戦争に関わっているかのような、妙に生々しい臨場感がありました。」
 
 しかし、ここはそんな生ぬるい表現で伝えられるものではなかった。
 
 
 兵士たちは普段は周辺の民家などで過ごし、爆撃があるとこの壕に逃げ込んできたそうです。時には廊下にまで人があふれ立ったまま眠る兵士もいたとか。
 ジオラマで再現されたものではない、本物の戦場がここにありました。
 


 幕僚室 1945年6月13日 ここで太田司令官以下6人の幕僚が手りゅう弾で自決しました。手りゅう弾の跡や血痕がそのまま残っています。



 暗号室 作戦上重要な部屋だったのでしょうが、中を写していません。
 


 医療室
 とはいうものの驚くほど狭いのです。 6畳もない部屋のように見えました。





 壁に太田司令官が、自決する一週間前に海軍司令部に送ったという電報の現代語訳が掲げられていました。ここの展示では唯一、沖縄戦の悲惨さを言葉で伝えているものです。できれば画像を拡大して原文で読んでいただきたいです。
 ところが! 最後の一文が写っていません。
 


 ここでわたしは初めて、通りすがりにざっと見た「仁愛の碑」がその電文であったことに気づきました。改めて「仁愛の碑」を見てみます。最後はこのように締めくくられていました。「沖縄県民、かく戦えり。県民に対し特別のご高配を賜らんことを。」
 


 この電報は東京の司令部に届いたのだろうか、届いたとしてもだれもどうにもできない事態になっていたはず。そうとわかっていても伝えずにはいられなかった県民の困窮と献身。司令官の良心と、後世に託す願いを見た思いです。われわれはその願いにどう応えてきたのだろうか。ちくりと、申し訳なさと後ろめたさとがよぎりました。
 
 
 発電室
 


 
 
 下士官隊員室 ここも狭い。
 
 
 まるで牢獄のようです。



 
 司令官室
 

 
 作戦会議もここで行われたようです。

 
 信号室
  写真なし
 
 出撃出口 格子の向こうの狭い扉が出撃出口。兵士たちは勝ち目のない戦闘に出て行き、ほとんどのものが帰ってこなかったそうです。
 
 
 先ほどからアジア系の人と思われる家族が前を歩いていました。小さな子供にときおり説明をしたりしていたのですが、ここで丁寧に手を合わせて出ていかれました。平和を願わない人なんてどこにもいない。それなのに今まだ愚かな戦争を続けているという現実。歴史から学ぶことをやめてはならない、悲惨な記憶は後世に伝えなければならない、そんな思いを強くしました。
 
 再び駐車場へ戻って遠くの海を眺めました。来た時とは全く違う気持ちで海を眺めました。那覇へ上陸したという米軍はあの海の向こうからやってきたのだろうか。圧倒的な戦力を見ながらここに立てこもった人々はどような気持ちで一日一日を生き延びたのか。
 
 
 駐車場横の草地ではセンダン草にタテハチョウが。

 
 これは何というチョウでしょう。美しい模様でした。この模様を写すためにしばしチョウを追いかけました。
 


 こうしてのんびりとチョウを追いかけることのできる幸せ。今の日本の平和は沖縄の貴い犠牲の上に築かれたのだということを忘れてはならないと思いました。

 だからね、ガンガラーの谷へ写真映えだけを求めてやってきたお嬢さんに、わたしは少々腹を立てたのですよ。

 長く重い文章をここまで読んでくださってありがとうございました。



 
 






 
 
 
コメント (10)
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