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さようなら

「まだあるか」
「はい」
「おかわりくれ」
「水割りですか」
「いや、今度はロックで」
「ふうう。マスター、鏑木さんとのつきあいも長いな」
「30年になりますね」
「そんなになるか」
「そんなになりますよ」
「そうか。オレも年取るはずだ」
「私も年取りました」
「いやあ、鏑木さんは変わらんよ」
「そうですか。黒木さんも変わってませんよ」
「オレは若いころから老け顔だったからな」
「私も同じですよ」
「そうだな。鏑木さんは30年前から鏑木さんだったな」
「黒木さんも30年前から黒木さんでしたよ」
「オレ、30年もこの街に通うとは思わなんだ」
「そうですか」
「オレが初めてこの店に来た時のこと覚えてるか」
「はい」
「実は、黒木さん、この店海神の2人目の客なんですよ」
「ほう、そうかい」
「この店を開店した当日、30分後に来た客が黒木さんなんです」
「へー。最初の客って、どんなヤツだった」
「覚えてませんか。黒木さんが入店された時にカウンターの端に座ってた人」
「覚えてないよ。あの時、仕事のことで頭がいっぱいで」
「そうですね。私がオーダー聞いても、うわの空でしたね」
「うん、あの時は、怒り狂うお得意をいかに納得させるか、それの算段に頭を悩ませておった」
「結局、お仕事はうまくいったんですね」
「そうなんだ。その客に気に入られて、なんかあるとオレがここに出張してたよ」
「そして、ウチの常連になったと」
「そうなんだ」
「気の重い仕事をかかえて、知らない街に来て、安宿で夜を過ごすのもなんだし、駅前の商店街をブラブラしてて、この店を見つけたんだ」
「グラスあいてますよ」
「ボトル、あとどれぐらいだ」
「あとロック2杯分ですね」
「ほっとしたよ」
「なにがですか」
「あの時さ。この店でウィスキーを飲んでたら、気持ちがおちついたよ」
「そうですか」
「ロック2杯入れてくれ」
「はい」
「鏑木さん、グラスを持ってくれ」
「はい」
「オレも定年だ。あそこも今月いっぱいで閉店だとさ」
「すると、黒木さん・・・」
「うん、もうこの街にくることはない。新しいボトルもキープしないよ」
「そうですか」
「乾杯」
「乾杯」
「じゃ、鏑木さん、マスター、お元気で」
「黒木さんも」
「さようなら」
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