トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

市道を走る渡し船、”三津の渡し”に乗る

2015年04月14日 | 日記

これは、伊予鉄道郊外線の1日乗車券です。1,200円で購入しました。ターミナル駅の松山市駅から放射線状に延びる伊予鉄道の横河原線、郡中線、高浜線の1日乗り放題切符です。しかし、平成27年4月1日からは、路面電車と郊外線の電車の両方が1日乗り放題できる、1,500円の新しい切符が生まれることになっていました。郊外線だけの1日乗車券の最後となる日、この切符を使って高浜線に乗車しました。

以前、郊外電車に乗ったとき、高浜線の港山駅で見つけた湊三嶋神社の案内看板です。看板の「当駅下車3分 三津の渡し右」という記述が気になって、もう一度訪ねてみたいと思っていました。「三津の渡し」というのですから、渡し船があるはずでした。

港山駅は松山市駅から7駅目(7.4km)にありました。

この日は、大手町駅と古町(こまち)駅で、郊外電車と路面電車の平面交差を見た(「全国唯一、鉄道と路面電車の平面交差、伊予鉄道」2015年4月8日の日記)後、高浜線の高浜行きの電車に乗車して、港山駅で下車しました。港山駅は、古町駅から5.6km。15分ぐらいで港山駅に着きました。出集札の委託駅で、高齢の駅員さんが立っておられました。1面2線のホームでした。

駅員さんの後ろが駅の出口です。出口から撮影しました。ちょうど横河原行きの電車がホームに入っていました。踏切の敷石の上から撮影しました。通りかかった高齢の男性に、三津の渡しについてお聞きしたら、「踏切から海の方に向かって2分ぐらいで着くよ。船が来なかったら、おーい!と呼んだら来てくれるけんな!」とのこと。どうやら「渡し」は今もあるようです。

教えていただいたとおり、海に向かって進みます。静かな通りです。

右側に、小高い山に築かれていた港山城に向かって登る道がありました。そこに案内板もありました。

その手前にあった洗心庵跡の石碑です。洗心庵は宝暦(1751~1764)年間の前期に建てられた尼寺でした。嘉永5(1852)年から20年間、円明尼という尼僧が居住していましたが、明治になって廃仏毀釈で廃寺になったそうです。寛政7(1795)年、洗心庵では小林一茶も参加して句会が開かれたと、手作りの掲示板には書かれていました。

その先にあった現代の道標。この道の先に向かって「伊予鉄道三津駅」と書かれていたのには、少し違和感がありました。この先には海しかないはずなのに・・・。

海が見えました。三津の渡しのようです。乗り場は石段状になっていました。洗心庵の説明にあった小林一茶も、ここで渡しを降りて、句会に参加したそうです。

左にあった「渡し」の案内板です。年中無休でした。

そのとき、お向かいにあった桟橋に停まっていた船が動き始めました。私の姿を見て迎えに来てくださっているようです。

桟橋の右側に「渡船ご利用の皆様へ」という掲示がありました。ブザーを押すと船の操舵室に連絡が行くようになっています。「おーい」と呼ぶ必要はないようでした。

「渡し」を見に来ただけなのに・・、と船長さんに申し訳ないことをしてしまったと考えているうちに、船はどんどん近づいて来ます。平成22(2010)年に就航した3.トン、全長9.1mの船だそうです。

1分ぐらいで、船が到着しました。フェリーと同じように正面から乗るようになっています。きれいな船で、座席には布団状のクッションが置いてありました。船長さんにお礼を言ってから乗船しました。船は、すぐに方向転換のためバックに動き始めました。この船は「こぶかり丸」でした。対岸の三津の人たちは三津の渡しを「洲崎の渡し」と呼び、手前の港山の人々は「古深里(こぶかり)の渡し」と呼んでいます。そのため、2隻の船名は「すさき丸」と「こぶかり丸」と命名されています。

船から見た、伊予鉄道港山駅方面です。この道は、松山市道高浜2号線。「渡し」の約80mは、この市道の1部になっています。海ではなく道路なのだそうです。「市道」の渡しと聞いて、ふるさと、岡山県倉敷市の「水江の渡し」を思い出しました。海ではなく高梁川なのですが、倉敷市道になっている「渡し」だったからです。「水江の渡し」も今も現役で利用者の輸送にあたっています。

渡った先から、港山駅方面を撮影しました。正面の山が港山。左の神社が湊三嶋神社です。港山には中世(1460年代)この地で勢力を張った河野通春が築いた港山城がありました。当時、河野通春は、河野家の宗家で道後の湯築城に拠る河野教通と争っていました。通春は周防の大内氏と結び、制海権を得ていましたので、宗家の教通をしのぐ力を持っていたのです。通春は、文明10(1478)年、文明13(1481)年の二度、教通と戦いましたが、そのとき港山の麓で流れ弾にあたって戦死したと、来る途中の洗心庵近くにあった案内には書かれていました。

瀬戸内海方面を撮影しました。左の建物のあたりが現在の三津浜港です。広島への航路をもつ石崎汽船の本社ビルもあります。三津浜港は河野氏が支配していた頃からの港町で、松山にある港の中で最も早く開かれたところです。初めは「御津(みつ)」と書いたそうですが、この近くの呼び名の熟田津、飽田津、就田津の3つの名前から「三津」と改められたといわれています。熟田津(にぎたづ)は「万葉集」の額田王の歌で広く知られています。

これは、伊予鉄道三津駅前にあった案内図です。白い線で道路が描かれていますが、三津の渡しから南に繋がっています。三津の渡しが「松山市道高浜2号線」という道であることがよくわかります。伊予鉄道三津駅は地図の南の端にあります。港山駅から来る途中にあった「伊予鉄道三津駅」の道標に違和感を感じてしまったのですが、そのとおりだと納得しました。

湾内にはたくさんの船舶が舫(もや)っており、港山側には小さな造船所もありました。ずいぶん栄えていた港のようです。江戸時代には、この地に御船場(おふなば)を置き、御船手(おふなて)を配置して、その統治下でたくさんの船の運航がなされていました。三津の渡しは、ずっと棹で船を操る手こぎで運行されていましたが、昭和45(1970)年にエンジン付きの渡船に転換したそうです。

このとき、港山側の桟橋に女性が立ちました。すぐにこちら側にいた「こぶかり丸」が、対岸に向かって出発していきました。こうして、「三津の渡し」は年間5万人の人を輸送しているそうです。

港山側に戻り、海岸線に沿って歩きます。民家の前に手作りの案内がありました。

「熟田津跡」と書かれていました。熟田津はこのあたりにあったようですね。

突き当たりが、対岸から見えた湊三嶋神社。この地で討ち死にした港山城主だった河野通春を祀っています。

港山駅に戻りました。古くから、松山市と松山市の外港であった三津港は三津街道によって結ばれていました。しかし、三津街道の道路事情が悪かったため、伊予鉄道高浜線を敷設することになりました。こうして、明治21(1888)年現在の松山市駅・三津駅間が、軌間762ミリの軽便鉄道として開通しました。その後、伊予鉄道が整備した高浜港を結ぶために、明治25(1992)年三津駅から高浜駅まで延伸しました。伊予鉄道高浜線は松山市とその外港を結ぶために設置された鉄道だったのです。

港山駅からに引き返し、三津駅に到着しました。港山駅から乗ってきた横河原駅行きの3000形3両編成の電車が出発していきました。さて、高浜線の軌間が現在と同じ1067ミリになるのは、昭和6(1931)年のことでした。

モダンな三津駅舎です。三津浜港は、明治時代に、「坂の上の雲」で知られる正岡子規や秋山好古、真之兄弟も帰省のときに利用したといわれています。子規は家族や親類、友人たちに送られて三津浜から豊中丸で出帆しました。彼の作品「半生の記」には「最もいやだったのは、初めて出京で三津浜から出帆したとき」と正直に書いているそうです。駅前の案内に書かれていました。

駅前から三津浜港に向かう道です。商家に挟まれた狭い道路が当時の面影を伝えてくれています。ここから15分ぐらいで三津の渡しに行くことができるそうです。

この地図は三津駅前にあった観光案内図です。三津駅、三津浜港、三津の渡し、港山駅などの位置関係がよくわかります。

岡山県倉敷市にある水江の渡しは、並行して建設中の橋梁が完成すると廃止されることになっています。三津の渡しは利用する人も多く、「松山市道高浜2号線」の一部としてこれからも活躍を続けていくことでしょう。港山駅にあった看板を見るまでまったく知らなかった三津の渡しでしたが、よくぞ見つけたと自分を誉めたいような大発見でした。