このところ、旧出雲街道を少しずつ歩いています。
雨が降り続く中を、出雲街道に沿って津山市の城西地区を歩きました。
出発はJR津山駅。
駅から今津屋橋を渡って、”ごんご通り”(鶴山通り)に入ります。
「ごんご」とは、河童のことで、吉井川に沿った作陽学園のあたりに出没し
付近の人を驚かせていたといわれています。
ルートは観光案内の掲示板に書かれています。
地図の右側の南北の通りが”ごんご通り”です。
オレンジ色のルートにそって歩きます。
以前、城東地区を歩いたときに右に向かって進んだ、
ソシオ一番街を、今回は左(西)に向かいます。
出雲方面に向かって歩くことになります。
地図では、この先で2つのルートに分かれています。
デパートの天満屋が入るアルネ津山の中を通り右折するルートと、
その手前の吉田カバン店の角を右折して二階町に入るルートです。
吉田かばん店のところを右折して二階町の通りを歩きます。
二階町は、井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商の蔵合家が
二階建ての家を建てたことに由来する町です。
写真の左のビルの間を左折します。
”Gintengai”のアーケードを右折して、銀天街に入ります。
津山藩主の大名行列の絵が飾られたところ、元魚町の手前を左折します。
二番街、そして本町三丁目と進んでいきます。
古くは元魚町が1丁目といわれていたので、
江戸時代には、ここは2丁目、3丁目と呼ばれていたそうです。
街道沿いに広がる商人町でした。
昭和になって「本町」がついて、現在の町の名前になったそうです。
アーケードがつきると奴通りに出ます。
出雲街道は、奴通りを右折して北に50mぐらい進み、
トマト銀行の手前を左折します。
坪井町。
城東地区にある勝間田町などと同じように、出身が同じ人が集まった町で、
津山市西部の旧坪井宿から移ってきた人々が住んだ町です。
昭和の雰囲気がただよう落ち着いた雰囲気の町です。
津山坪井郵便局を過ぎると、道路の舗装の色が変わります。
ここから、宮脇町に入ります。
道路の色が変わる前の電柱があるところを左に曲がると、
10mぐらいで、神社の石の鳥居が見えてきます。
徳守神社の鳥居です。
天平5(732)年に勧請された由緒ある神社でしたが、
戦国時代に焼失していたのを、
津山藩の初代藩主、森忠政が、
慶長9(1604)年に、津山城下総鎮守として造営したといわれています。
本殿、拝殿は寛文4(1664)年、
名君と称えられた2代藩主森長継が再建したものだそうです。
本殿は、入母屋式妻入りの中山造。 屋根は銅板葺き。
正面に、唐破風様の向拝(こうはい)がついています。
宮脇町が尽きる手前を右(北)に進むと、
旧中島病院の本館の建物があります。
大正8(1919)年建築の、津山最古の病院建築。
一見、鉄筋コンクリートづくりに見えますが、2階建ての木造建築です。
国の登録有形文化財に指定されています。
現在は、城西浪漫館となっています。
再び、宮脇町に戻ります。
津山信用金庫西支店の前で、道は少し左にカーブします。
その先が翁橋(おきなばし)です。
江戸時代、ここは城下町への西からの入り口で、大番所が置かれていました。
ちなみに東の入り口の大番所は、宮川大橋の西詰めにありました。
南北に流れる藺田川(いだがわ)にかかる橋で、江戸時代には、
茅野橋とか九蔵橋とよばれていたとか。
また、岡山往来の起点でもありました。
大正15(1926)年に木造の橋から、現在の鉄筋コンクリート造りに
掛け替えられたそうです。
国の登録有形文化財に指定されています。
この写真は、翁橋を渡った先を、左に藺田川に沿って
吉井川に下っていく道を写したものです。
この道に入ります。
雨が激しく、ズボンが濡れてびしょびしょになり、
カメラのレンズも曇り始めていました。
100mぐらいで、泰安寺の参道に着きます。
森家の改易後に津山藩主となった、松平家の菩提寺です。
右に参道を進むと泰安寺の本堂に着きます。
ここには、松平家初代藩主松平宣富、7代藩主松平斉孝とともに、
前藩主の森長継の第13子大吉の墓があるそうです。
泰安寺の東にあるのが、浄土宗成道寺。
慶長9(1604)年、藩主の森忠政が建立した寺院です。
明治39(1902)年、元津山藩、次に元北条県で使われていた門が
払い下げられ、山門として使われています。
山門に接している右の建物は番士(かち)がいたところです。
また、翁橋まで引き返します。
ここからは、西今町になります。
左に洋館建築が見えます。 旧土居銀行本店の建物です。
土居銀行は、明治30(1897)年、
津山市の素封家で元県議の土居通信(元県議)が設立しました。
大正9(1920)年、株式会社に変更しここに本店を建築しました。
この建物は、そのときの本店でした。
その後、作備銀行、山陽銀行と名を変え、
昭和5(1930)年に中国銀行になりました。
所有者は何回か変わりましたが、
平成4(1993)年、津山市が買い取り、平成5(1994)年から
現在の、作州民芸館として使用されています。
おひな様が飾られていました。
作州民芸館の向かいに、東海山本源寺の山門があります。
本源寺は、津山藩主森家の菩提寺です。
この先が、本源寺の長い参道です。
保育園を過ぎて、本源寺に着きます。
本源寺の本堂。立派な建物です。
御霊屋(おたまや)表門です。この先には入れませんが、
中に御霊屋がつくられています。
また、津山藩初代藩主、森忠政の座像も納められているそうです。
西今町は、古くは茅野町と言われ、
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に津山城下町に編入されたところです。
旧街道の雰囲気が色濃く残っています。
切妻平入りの建物で2階に袖壁をつけ、
虫籠窓に出格子がついた民家が並んでいます。
西今町を過ぎると、西寺町に入ります。
白漆喰の土塀が続いています。
赤門があざやかな寿光寺。
寿光寺の次の路地にあったトイレです。
周囲の雰囲気に見事にマッチしていました。
雨に濡れ寒い日でしたので、ほんとにありがたいことでした。
鐘楼のついている山門。 愛染寺。
創建は慶長10(1605)年。
山門は正保元(1644)年に造営されました。
左側には、津山城下町最大の本堂をもつ、広い敷地の妙法寺。
本源寺、泰安寺とともに、津山三大寺院と言われています。
西寺町のエリアには、この他に、本行寺、妙勝寺、長安寺、大雄寺、福泉寺、
光巌寺、成覚寺が並んでいました。
愛染寺につづく大圓寺を過ぎると茅野町に入ります。
ここも、昭和の雰囲気を感じる町並みです。
茅野町を抜けると南東から北西に斜めに走る道とぶつかります。
旧出雲街道は、この道を右に向かっておりました。
その先、旧出雲街道は、
津山市街地の北部を西に向かう国道179号線と平行して、
院庄に向かいます。
院庄まで歩くつもりでしたが、激しい雨に負けて、ここで、
JR津山駅に引き返すことにしました。
歩き始めてから、ここまで4時間弱かかりました。
距離的には長くはなかったのですが・・・・。
雨が降り続く中を、出雲街道に沿って津山市の城西地区を歩きました。
出発はJR津山駅。
駅から今津屋橋を渡って、”ごんご通り”(鶴山通り)に入ります。
「ごんご」とは、河童のことで、吉井川に沿った作陽学園のあたりに出没し
付近の人を驚かせていたといわれています。
ルートは観光案内の掲示板に書かれています。
地図の右側の南北の通りが”ごんご通り”です。
オレンジ色のルートにそって歩きます。
以前、城東地区を歩いたときに右に向かって進んだ、
ソシオ一番街を、今回は左(西)に向かいます。
出雲方面に向かって歩くことになります。
地図では、この先で2つのルートに分かれています。
デパートの天満屋が入るアルネ津山の中を通り右折するルートと、
その手前の吉田カバン店の角を右折して二階町に入るルートです。
吉田かばん店のところを右折して二階町の通りを歩きます。
二階町は、井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商の蔵合家が
二階建ての家を建てたことに由来する町です。
写真の左のビルの間を左折します。
”Gintengai”のアーケードを右折して、銀天街に入ります。
津山藩主の大名行列の絵が飾られたところ、元魚町の手前を左折します。
二番街、そして本町三丁目と進んでいきます。
古くは元魚町が1丁目といわれていたので、
江戸時代には、ここは2丁目、3丁目と呼ばれていたそうです。
街道沿いに広がる商人町でした。
昭和になって「本町」がついて、現在の町の名前になったそうです。
アーケードがつきると奴通りに出ます。
出雲街道は、奴通りを右折して北に50mぐらい進み、
トマト銀行の手前を左折します。
坪井町。
城東地区にある勝間田町などと同じように、出身が同じ人が集まった町で、
津山市西部の旧坪井宿から移ってきた人々が住んだ町です。
昭和の雰囲気がただよう落ち着いた雰囲気の町です。
津山坪井郵便局を過ぎると、道路の舗装の色が変わります。
ここから、宮脇町に入ります。
道路の色が変わる前の電柱があるところを左に曲がると、
10mぐらいで、神社の石の鳥居が見えてきます。
徳守神社の鳥居です。
天平5(732)年に勧請された由緒ある神社でしたが、
戦国時代に焼失していたのを、
津山藩の初代藩主、森忠政が、
慶長9(1604)年に、津山城下総鎮守として造営したといわれています。
本殿、拝殿は寛文4(1664)年、
名君と称えられた2代藩主森長継が再建したものだそうです。
本殿は、入母屋式妻入りの中山造。 屋根は銅板葺き。
正面に、唐破風様の向拝(こうはい)がついています。
宮脇町が尽きる手前を右(北)に進むと、
旧中島病院の本館の建物があります。
大正8(1919)年建築の、津山最古の病院建築。
一見、鉄筋コンクリートづくりに見えますが、2階建ての木造建築です。
国の登録有形文化財に指定されています。
現在は、城西浪漫館となっています。
再び、宮脇町に戻ります。
津山信用金庫西支店の前で、道は少し左にカーブします。
その先が翁橋(おきなばし)です。
江戸時代、ここは城下町への西からの入り口で、大番所が置かれていました。
ちなみに東の入り口の大番所は、宮川大橋の西詰めにありました。
南北に流れる藺田川(いだがわ)にかかる橋で、江戸時代には、
茅野橋とか九蔵橋とよばれていたとか。
また、岡山往来の起点でもありました。
大正15(1926)年に木造の橋から、現在の鉄筋コンクリート造りに
掛け替えられたそうです。
国の登録有形文化財に指定されています。
この写真は、翁橋を渡った先を、左に藺田川に沿って
吉井川に下っていく道を写したものです。
この道に入ります。
雨が激しく、ズボンが濡れてびしょびしょになり、
カメラのレンズも曇り始めていました。
100mぐらいで、泰安寺の参道に着きます。
森家の改易後に津山藩主となった、松平家の菩提寺です。
右に参道を進むと泰安寺の本堂に着きます。
ここには、松平家初代藩主松平宣富、7代藩主松平斉孝とともに、
前藩主の森長継の第13子大吉の墓があるそうです。
泰安寺の東にあるのが、浄土宗成道寺。
慶長9(1604)年、藩主の森忠政が建立した寺院です。
明治39(1902)年、元津山藩、次に元北条県で使われていた門が
払い下げられ、山門として使われています。
山門に接している右の建物は番士(かち)がいたところです。
また、翁橋まで引き返します。
ここからは、西今町になります。
左に洋館建築が見えます。 旧土居銀行本店の建物です。
土居銀行は、明治30(1897)年、
津山市の素封家で元県議の土居通信(元県議)が設立しました。
大正9(1920)年、株式会社に変更しここに本店を建築しました。
この建物は、そのときの本店でした。
その後、作備銀行、山陽銀行と名を変え、
昭和5(1930)年に中国銀行になりました。
所有者は何回か変わりましたが、
平成4(1993)年、津山市が買い取り、平成5(1994)年から
現在の、作州民芸館として使用されています。
おひな様が飾られていました。
作州民芸館の向かいに、東海山本源寺の山門があります。
本源寺は、津山藩主森家の菩提寺です。
この先が、本源寺の長い参道です。
保育園を過ぎて、本源寺に着きます。
本源寺の本堂。立派な建物です。
御霊屋(おたまや)表門です。この先には入れませんが、
中に御霊屋がつくられています。
また、津山藩初代藩主、森忠政の座像も納められているそうです。
西今町は、古くは茅野町と言われ、
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に津山城下町に編入されたところです。
旧街道の雰囲気が色濃く残っています。
切妻平入りの建物で2階に袖壁をつけ、
虫籠窓に出格子がついた民家が並んでいます。
西今町を過ぎると、西寺町に入ります。
白漆喰の土塀が続いています。
赤門があざやかな寿光寺。
寿光寺の次の路地にあったトイレです。
周囲の雰囲気に見事にマッチしていました。
雨に濡れ寒い日でしたので、ほんとにありがたいことでした。
鐘楼のついている山門。 愛染寺。
創建は慶長10(1605)年。
山門は正保元(1644)年に造営されました。
左側には、津山城下町最大の本堂をもつ、広い敷地の妙法寺。
本源寺、泰安寺とともに、津山三大寺院と言われています。
西寺町のエリアには、この他に、本行寺、妙勝寺、長安寺、大雄寺、福泉寺、
光巌寺、成覚寺が並んでいました。
愛染寺につづく大圓寺を過ぎると茅野町に入ります。
ここも、昭和の雰囲気を感じる町並みです。
茅野町を抜けると南東から北西に斜めに走る道とぶつかります。
旧出雲街道は、この道を右に向かっておりました。
その先、旧出雲街道は、
津山市街地の北部を西に向かう国道179号線と平行して、
院庄に向かいます。
院庄まで歩くつもりでしたが、激しい雨に負けて、ここで、
JR津山駅に引き返すことにしました。
歩き始めてから、ここまで4時間弱かかりました。
距離的には長くはなかったのですが・・・・。