中山道鳥居本宿で中山道と別れ、琵琶湖の東岸を長浜・木之本を通り、栃ノ木峠(標高537m)を越えて、越前・加賀に向かった北国(ほっこく)街道。浅井・朝倉を滅亡させた織田信長から越前国を与えられた柴田勝家が、織田信長の居城である安土城へ向かう最短距離の道を整備したことに始まります。青春18きっぷが使える時期になりましたので、早速、旧北国街道木之本宿の街並みを訪ねました。
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JR木之本駅です。木之本宿の商家の雰囲気を生かしたデザインです。滋賀県伊香郡木之本町は、現在では長浜市木之本町になっています。
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隣の観光案内所で、観光地図をいただき、木之本宿についての情報をいただきました。
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これは観光案内所でいただいた「きのもとまちあるきMAP」です。これを手に歩き始めました。
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観光案内所の前には、次々に観光バスが到着しており、赤い制服のスタッフは対応に追われていました。
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駅前に掲示されていた案内図です。この地図の「日吉神社」の西付近から図の左(北)に向かって歩くことにしました。
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スタートは、木之本町廣にある田部西交差点。ここから北に向かいました。かつて、北国街道を北に向かう旅人は、現在の国道8号線の千田交差点の南側付近から、ここに至る斜めの道を進み、このあたりまで来ていました。現在では、その斜めの道は消滅してしまっていますが・・。
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赤川にかかる法光寺橋を渡って進むと右側に日吉(ひよし)神社がありました。安産の神様として尊崇されていて、境内の井戸の水を本社前の小さな溝に流して、社殿へ向かう小さな橋の下を通過すると安産になると信じられていました。この神社は、大正5(1916)年に木之本町の全戸が焼失する大火が起きたときに、奇跡的に難を逃れたそうです。案内板に書かれていました。
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宿場の入り口です。枡形になっていたのでしょう。鍵形に宿場に入っていく構造になっていました。右手の白壁のお宅の前に石碑が立っていました。
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商家の前にあった石碑です。「みぎ 京いせミち」北国街道の道標です。「ひだり 江戸なごや道」。こちらは、北国脇往還を示しています。江戸時代、参勤交代に越前国の大名が利用した道でした。木之本宿から中山道の関ヶ原宿へ続く、北陸と東海を結ぶ最短距離の道として整備されました。
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写真の道は、現在の北国脇往還。関ヶ原宿に向かう道になります。
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北国街道と北国脇往還の分岐点を振り返って撮影しました。正面にある商家の右の脇を先に進むのが北国街道、左折して進むのが北国脇往還です。
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旧木之本宿に入りました。街頭の柱や案内の道標に残る「北国街道木之本宿」です。江戸時代には彦根藩領となり、元禄(1688~1703)年間には戸数は193軒あり、1345人が居住していたそうです。
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山からの水や気候に恵まれていた木之本は、醸造業が盛んでした。すぐ左にあった大幸醤油店です。現在も「大」と「幸」の字を組み合わせた屋号が看板に残っています。
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岩根醤油店です。大幸醤油店の斜め向かいぐらいの位置にありました。
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その隣のお宅の前に「元庄屋 竹本助六家」と書かれた案内板がありました。竹本助六は、江戸時代の末期に南木之本村の庄屋をつとめていたそうです。
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その先の左側に「伝馬町」と書かれた看板がありました。宿場の中心です。
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左にあった鉄筋コンクリートの建物に、たくさんの赤い旗が掛けられています。現在、「黒田官兵衛博覧会」が開催されていました。NHK大河ドラマで放映中の黒田官兵衛のドラマに関する展示とDVDの放映が行われていました。黒田官兵衛は近江国伊香郡黒田村の出身とされていますので、ずいぶん盛り上がっています。観光案内所で見た観光バスの人々も、たくさん見学されていました。
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ここは、江戸時代に木之本宿の問屋場があったところです。問屋場は、宿場で人馬の引き継ぎを行う役所でした。明治になってからは警察署が、昭和10(1935)年からは、湖北銀行木之本支店があったところです。平成17(2005)年からは、「きのもと交遊館」として催し物に使われているそうです。
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その先の右(東)側にある白木屋です。江戸末期に創業した歴史を重ねた醤油店です。
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白木やから3軒ほど先に、「蓮如上人ゆかりのお寺」明楽寺がありました。観光案内所で求めたガイドブック「みな」の中に「蓮如上人御影(ごえい)道中」のことが掲載されていました。それによると、宝暦2(1752)年越前国吉崎での法要に、東本願寺に預けられていた蓮如上人の御影(ごえい)を、吉崎まで「下向(げこう)」させることになったそうです。本願寺が江戸時代初期の内紛で東西に分かれたとき、「御影」は東本願寺に預けられていたそうですが、これが、上人の歩いた道をたどって京と吉崎を徒歩で往復する「蓮如上人御影道中」の始まりとされています。
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境内にあった蓮如上人腰掛説法石です。「蓮如上人ゆかり」というのは、この石のことを表しているのでしょう。 さて、宝暦2(1752)年の法要の時、御影はリヤカーに載せられて、それを守る「教導(法話を行う)」と随行する8人の供奉人(ぐぶにん)の手で吉崎まで運ばれました。法要が終わった後、今度は「上洛」の旅を続けます。5月2日に吉崎を出て上洛が始まりました。木之本には5月5日に到着し、一行は明楽寺に宿泊したそうです。「連如上人ゆかりのお寺」には、このことも含まれているのではないかと思います。
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明楽寺の向かいにあった、「銘酒七本槍」で知られる冨田酒造有限会社です。先祖は北近江源氏の佐々木京極。浅井(あざい)氏が台頭したため、天文2(1523)年にこの地に移り住みました。造り酒屋を営む傍ら庄屋として、この地の商業や福祉の発展に尽くしてきました。母屋は、延享元(1744)年の建築です。
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軒下の柱に馬つなぎの金具が残っていました。
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明楽寺の並びにあった本陣薬局です。かつて、木之本宿の竹内五左衛門本陣があったところです。将軍の息女、溶姫一行がここに宿泊したとき、3000人分の寝具などを助郷(すけごう)の村から集めたと、案内には書かれていました。
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屋敷の玄関脇に、たくさんの薬の看板が掛けてあります。「御湯薬」「健胃国腸丸」「ばい毒根治新剤」「中将湯」「浅田飴」「萬応丸」などなど・・。それもそのはず、日本薬剤師の第1号の免状は、この家の方が取得しておられたのです。
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本陣跡の並びに石垣が見えました。
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時宗の木之本地蔵院(浄信寺)です。木之本は、この地蔵院の門前町としても発展してきました。彦根藩が木之本を領有していたとき、地蔵院は寺領50石を有していました。
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本堂の傍らに立つ6尺(約1.8m)の「木之本のお地蔵さん」と呼ばれる大きなお地蔵さんが、参拝客を迎えてくれます。北国街道を旅するほとんどの人が参詣していたといわれています。
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地蔵院の門前にあった「「札ノ辻」の石柱です。彦根藩が公示事項を周知するために、ここに「制札」を立てていたので、札ノ辻と呼ばれたといわれています。
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これはこの先の馬宿平四郎家に展示されていた制札です。このような制札が立てられていたのでしょうね。
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これは、地蔵院の門前の通り、地蔵坂です。地蔵院に向かって撮影しました。地蔵坂は落ち着いた雰囲気の通りですが、今は黒田官兵衛一色です。地蔵院の門前で、北国街道と地蔵坂が合流していました。
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地蔵院から先(北)は北木之本村になります。元禄年間、北木之本村には74軒、602人が居住していました。ちなみに、地蔵院から南の南木之本宿には119軒、743人が居住していたといわれています。
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地蔵院の並びに、北木之本村の庄屋だった上阪五郎右衛門家がありました。この建物は、弘化4(1847)年の築造だそうですが、「2階部分が低くなっている役人家屋で、駕籠が常置されていた」と説明に書かれていました。
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その先に、「中之町 屋号 善左衛門」と書かれた商家風のお宅がありました。町づくりの関係者の事務所なのでしょうか。
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屋敷前に掲示されていた、かつての木之本宿の写真です。街道の中央に水路が設けられており、柳の木が植えられていたようです。
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その先、旧街道の右(東)側「名代 鯖棒寿司」で知られている ”すし慶”のお店です。明治時代になってから、ここに伊香郡役所が置かれていていました。
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その先は山路酒造有限会社。冨田酒造とともに、天文(1531~1542)年間創業の老舗です。江戸時代に、木之本宿の脇本陣をつとめていた山路清平家です。江戸末期には伝馬所取締役をつとめ、木之本宿の北にあった柳ヶ瀬関所を通過した人馬の検認をしていました。ここには、明治時代になってから、郵便局の前身である駅逓(えきてい)が置かれていました。
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その先で鍵形に交差する左右の道を越えます。その先がかつて木之本馬市が開かれていたところです。室町時代から昭和初期まで、年2回この地区の20軒ほどの民家を宿にして、伝統の馬市が開かれていました。近江、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭の国々から数百頭の牛馬が集まり活況を呈していたということです。
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左(西)側に馬宿平四郎の屋敷がありました。戦国時代、山内一豊の妻、千代が、夫のためにこの馬宿から出た名馬、摺墨を買い求めました。この馬で手柄をたてた山内一豊は、伊香郡の黒田村、大音村西山村を拝領し知行地としたそうです。商いは買い手が売り手の袖の中に手を入れて双方が指を握りあって交渉したよう、商談が成立すると両者が手を打って周囲にいた人もそれに合わせたといわれています。
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馬宿平四郎の屋敷を越えると、旧街道は右カーブして緩やかな登り坂になります。
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登り坂の途中に、一里塚跡がありました。案内板の裏に、上部を切られて丸太のようになった松の木がありました。一里塚は1里ごとに土を盛り上げ木を植えて、旅人の目印にしたものです。「みな」に載っていた写真には、枝もついていましたので、切られたのは最近のことなのかもしれません。
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一里塚の手前の現在藤居邸があるところに、かつては茶店があって、旅人はそこで一服していたということです。
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北国街道を進む旅人は、この先で木之本宿を抜けて、柳ヶ瀬関所から栃ノ木峠方面に向かって進んで行きました。
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これは、JR木ノ本駅の前にあった江北図書館の建物です。滋賀県で最も古く、明治39(1906)年に設立されました。100歳を越えて現役を続けています。
琵琶湖の東に位置する北国街道木之本宿。静かで落ち着いた宿場町でした。しかし、町は活気づいていました。観光バスが着くたびに多くの観光客が降り立ち、黒田官兵衛ゆかりの展示品に見入っています。町には、官兵衛と書かれた幟(のぼり)がはためいていました。この機会に多くの観光客に、宿場町木之本の雰囲気を味わってほしいと思ったものでした。
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JR木之本駅です。木之本宿の商家の雰囲気を生かしたデザインです。滋賀県伊香郡木之本町は、現在では長浜市木之本町になっています。
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隣の観光案内所で、観光地図をいただき、木之本宿についての情報をいただきました。
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これは観光案内所でいただいた「きのもとまちあるきMAP」です。これを手に歩き始めました。
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観光案内所の前には、次々に観光バスが到着しており、赤い制服のスタッフは対応に追われていました。
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駅前に掲示されていた案内図です。この地図の「日吉神社」の西付近から図の左(北)に向かって歩くことにしました。
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スタートは、木之本町廣にある田部西交差点。ここから北に向かいました。かつて、北国街道を北に向かう旅人は、現在の国道8号線の千田交差点の南側付近から、ここに至る斜めの道を進み、このあたりまで来ていました。現在では、その斜めの道は消滅してしまっていますが・・。
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赤川にかかる法光寺橋を渡って進むと右側に日吉(ひよし)神社がありました。安産の神様として尊崇されていて、境内の井戸の水を本社前の小さな溝に流して、社殿へ向かう小さな橋の下を通過すると安産になると信じられていました。この神社は、大正5(1916)年に木之本町の全戸が焼失する大火が起きたときに、奇跡的に難を逃れたそうです。案内板に書かれていました。
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宿場の入り口です。枡形になっていたのでしょう。鍵形に宿場に入っていく構造になっていました。右手の白壁のお宅の前に石碑が立っていました。
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商家の前にあった石碑です。「みぎ 京いせミち」北国街道の道標です。「ひだり 江戸なごや道」。こちらは、北国脇往還を示しています。江戸時代、参勤交代に越前国の大名が利用した道でした。木之本宿から中山道の関ヶ原宿へ続く、北陸と東海を結ぶ最短距離の道として整備されました。
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写真の道は、現在の北国脇往還。関ヶ原宿に向かう道になります。
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北国街道と北国脇往還の分岐点を振り返って撮影しました。正面にある商家の右の脇を先に進むのが北国街道、左折して進むのが北国脇往還です。
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旧木之本宿に入りました。街頭の柱や案内の道標に残る「北国街道木之本宿」です。江戸時代には彦根藩領となり、元禄(1688~1703)年間には戸数は193軒あり、1345人が居住していたそうです。
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山からの水や気候に恵まれていた木之本は、醸造業が盛んでした。すぐ左にあった大幸醤油店です。現在も「大」と「幸」の字を組み合わせた屋号が看板に残っています。
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岩根醤油店です。大幸醤油店の斜め向かいぐらいの位置にありました。
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その隣のお宅の前に「元庄屋 竹本助六家」と書かれた案内板がありました。竹本助六は、江戸時代の末期に南木之本村の庄屋をつとめていたそうです。
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その先の左側に「伝馬町」と書かれた看板がありました。宿場の中心です。
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左にあった鉄筋コンクリートの建物に、たくさんの赤い旗が掛けられています。現在、「黒田官兵衛博覧会」が開催されていました。NHK大河ドラマで放映中の黒田官兵衛のドラマに関する展示とDVDの放映が行われていました。黒田官兵衛は近江国伊香郡黒田村の出身とされていますので、ずいぶん盛り上がっています。観光案内所で見た観光バスの人々も、たくさん見学されていました。
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ここは、江戸時代に木之本宿の問屋場があったところです。問屋場は、宿場で人馬の引き継ぎを行う役所でした。明治になってからは警察署が、昭和10(1935)年からは、湖北銀行木之本支店があったところです。平成17(2005)年からは、「きのもと交遊館」として催し物に使われているそうです。
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その先の右(東)側にある白木屋です。江戸末期に創業した歴史を重ねた醤油店です。
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白木やから3軒ほど先に、「蓮如上人ゆかりのお寺」明楽寺がありました。観光案内所で求めたガイドブック「みな」の中に「蓮如上人御影(ごえい)道中」のことが掲載されていました。それによると、宝暦2(1752)年越前国吉崎での法要に、東本願寺に預けられていた蓮如上人の御影(ごえい)を、吉崎まで「下向(げこう)」させることになったそうです。本願寺が江戸時代初期の内紛で東西に分かれたとき、「御影」は東本願寺に預けられていたそうですが、これが、上人の歩いた道をたどって京と吉崎を徒歩で往復する「蓮如上人御影道中」の始まりとされています。
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境内にあった蓮如上人腰掛説法石です。「蓮如上人ゆかり」というのは、この石のことを表しているのでしょう。 さて、宝暦2(1752)年の法要の時、御影はリヤカーに載せられて、それを守る「教導(法話を行う)」と随行する8人の供奉人(ぐぶにん)の手で吉崎まで運ばれました。法要が終わった後、今度は「上洛」の旅を続けます。5月2日に吉崎を出て上洛が始まりました。木之本には5月5日に到着し、一行は明楽寺に宿泊したそうです。「連如上人ゆかりのお寺」には、このことも含まれているのではないかと思います。
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明楽寺の向かいにあった、「銘酒七本槍」で知られる冨田酒造有限会社です。先祖は北近江源氏の佐々木京極。浅井(あざい)氏が台頭したため、天文2(1523)年にこの地に移り住みました。造り酒屋を営む傍ら庄屋として、この地の商業や福祉の発展に尽くしてきました。母屋は、延享元(1744)年の建築です。
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軒下の柱に馬つなぎの金具が残っていました。
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明楽寺の並びにあった本陣薬局です。かつて、木之本宿の竹内五左衛門本陣があったところです。将軍の息女、溶姫一行がここに宿泊したとき、3000人分の寝具などを助郷(すけごう)の村から集めたと、案内には書かれていました。
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屋敷の玄関脇に、たくさんの薬の看板が掛けてあります。「御湯薬」「健胃国腸丸」「ばい毒根治新剤」「中将湯」「浅田飴」「萬応丸」などなど・・。それもそのはず、日本薬剤師の第1号の免状は、この家の方が取得しておられたのです。
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本陣跡の並びに石垣が見えました。
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時宗の木之本地蔵院(浄信寺)です。木之本は、この地蔵院の門前町としても発展してきました。彦根藩が木之本を領有していたとき、地蔵院は寺領50石を有していました。
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本堂の傍らに立つ6尺(約1.8m)の「木之本のお地蔵さん」と呼ばれる大きなお地蔵さんが、参拝客を迎えてくれます。北国街道を旅するほとんどの人が参詣していたといわれています。
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地蔵院の門前にあった「「札ノ辻」の石柱です。彦根藩が公示事項を周知するために、ここに「制札」を立てていたので、札ノ辻と呼ばれたといわれています。
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これはこの先の馬宿平四郎家に展示されていた制札です。このような制札が立てられていたのでしょうね。
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これは、地蔵院の門前の通り、地蔵坂です。地蔵院に向かって撮影しました。地蔵坂は落ち着いた雰囲気の通りですが、今は黒田官兵衛一色です。地蔵院の門前で、北国街道と地蔵坂が合流していました。
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地蔵院から先(北)は北木之本村になります。元禄年間、北木之本村には74軒、602人が居住していました。ちなみに、地蔵院から南の南木之本宿には119軒、743人が居住していたといわれています。
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地蔵院の並びに、北木之本村の庄屋だった上阪五郎右衛門家がありました。この建物は、弘化4(1847)年の築造だそうですが、「2階部分が低くなっている役人家屋で、駕籠が常置されていた」と説明に書かれていました。
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その先に、「中之町 屋号 善左衛門」と書かれた商家風のお宅がありました。町づくりの関係者の事務所なのでしょうか。
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屋敷前に掲示されていた、かつての木之本宿の写真です。街道の中央に水路が設けられており、柳の木が植えられていたようです。
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その先、旧街道の右(東)側「名代 鯖棒寿司」で知られている ”すし慶”のお店です。明治時代になってから、ここに伊香郡役所が置かれていていました。
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その先は山路酒造有限会社。冨田酒造とともに、天文(1531~1542)年間創業の老舗です。江戸時代に、木之本宿の脇本陣をつとめていた山路清平家です。江戸末期には伝馬所取締役をつとめ、木之本宿の北にあった柳ヶ瀬関所を通過した人馬の検認をしていました。ここには、明治時代になってから、郵便局の前身である駅逓(えきてい)が置かれていました。
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その先で鍵形に交差する左右の道を越えます。その先がかつて木之本馬市が開かれていたところです。室町時代から昭和初期まで、年2回この地区の20軒ほどの民家を宿にして、伝統の馬市が開かれていました。近江、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭の国々から数百頭の牛馬が集まり活況を呈していたということです。
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左(西)側に馬宿平四郎の屋敷がありました。戦国時代、山内一豊の妻、千代が、夫のためにこの馬宿から出た名馬、摺墨を買い求めました。この馬で手柄をたてた山内一豊は、伊香郡の黒田村、大音村西山村を拝領し知行地としたそうです。商いは買い手が売り手の袖の中に手を入れて双方が指を握りあって交渉したよう、商談が成立すると両者が手を打って周囲にいた人もそれに合わせたといわれています。
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馬宿平四郎の屋敷を越えると、旧街道は右カーブして緩やかな登り坂になります。
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登り坂の途中に、一里塚跡がありました。案内板の裏に、上部を切られて丸太のようになった松の木がありました。一里塚は1里ごとに土を盛り上げ木を植えて、旅人の目印にしたものです。「みな」に載っていた写真には、枝もついていましたので、切られたのは最近のことなのかもしれません。
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一里塚の手前の現在藤居邸があるところに、かつては茶店があって、旅人はそこで一服していたということです。
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北国街道を進む旅人は、この先で木之本宿を抜けて、柳ヶ瀬関所から栃ノ木峠方面に向かって進んで行きました。
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これは、JR木ノ本駅の前にあった江北図書館の建物です。滋賀県で最も古く、明治39(1906)年に設立されました。100歳を越えて現役を続けています。
琵琶湖の東に位置する北国街道木之本宿。静かで落ち着いた宿場町でした。しかし、町は活気づいていました。観光バスが着くたびに多くの観光客が降り立ち、黒田官兵衛ゆかりの展示品に見入っています。町には、官兵衛と書かれた幟(のぼり)がはためいていました。この機会に多くの観光客に、宿場町木之本の雰囲気を味わってほしいと思ったものでした。