多度津街道は、多度津から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道です。金毘羅詣りが盛んになったのは、江戸時代後期の文化文政期(1804年~1829年)頃からだといわれています。天保9(1838)年、多度津藩によって整備された多度津湛甫(たんぽ・港)が開かれてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていったそうです。これまで、2回に分けて多度津から善通寺簡易裁判所前まで歩いてきました(「多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2) 善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)が、今回は、善通寺市街地から大麻町の中土居の道標まで歩くことにしていました。
JR土讃線の善通寺駅です。この日も、前2回と同じように半端ない暑さの日でした。
駅前にあった市街地図です。善通寺簡易裁判所は、ここからまっすぐ進んだ先の、主要地方道善通寺大野原線(県道24号)との交差点の手前にあります。しかし、この日は街道歩きの前にどうしても見てみたいものがありました。それは、善通寺市総合会館にありました。
JR善通寺駅から、善通寺簡易裁判所に向かう駅前通りに出ると、目の前に「善通寺市総合会館」の案内がありました。左折して10分ぐらい歩くと総合会館の前に着きました。
総合会館前の道路脇に、たくさんの灯籠や道標が移設されています。その中に、二つ気になる石標がありました。写真の左から2つ目の石標には「四十町岩國塩屋大(その下は地中に埋もれていました)」と、その右2つ目の石標には「五十五丁岩国屋平田○八」(○は読めませんでした)と刻まれています。多度津町立資料館でいただいたパンフレットには「多度津街道にあった灯籠と石碑が移されている」と書かれており、多度津街道に設置されていた丁石のようです。「町」と「丁」と異なっていますが、起点推定地の多度津商工会議所付近から四十町のところ、五十五町のところに設置されていた丁石かもしれません。ちなみに、多度津街道にあてはめてみると、「四十町石」は、前回歩いた区間(「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)の「下吉田の道標」から琴平寄りに1町の地点に、「五十五丁石」は、善通寺グランドホテル付近にあった(多度津町立資料館でいただいた「多度津街道丁石推定地」の資料)ようです。
善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。簡易裁判所の先で途切れていた多度津街道は、四国学院大学の先の生野本町(いかのほんまち)二丁目で左折し、その先を右折して、南の熊ヶ池に向かっていたようです。
駅前から簡易裁判所に向かう通りに戻りました。正面に山が重なって見えます。正面手前の山が香色山(こうしきざん)、その後ろが我拝師山(がはいしざん)、右側が筆山(ふでのやま)です。これに、その後ろにある中山(なかやま)と火上山(ひあげやま)を加えた五つの山(「五岳」)は、その美しさから屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれて来ました。善通寺市にはこの五つの山からつけた「五岳」というブランドのお酒もあるそうです。
駅前通りに戻り、20分ぐらい歩いて善通寺簡易裁判所に着きました。
スタートです。簡易裁判所の県道24号の交差点を左折して、四国学院大学を過ぎて次のブロックに進みます。道路標識の先に三差路が見えました。ルートマップでは、多度津街道は三差路の手前を左折しています。
他に道がなかったので、三差路の一つ手前で左折して、用水路に沿った道を進んでいきます。
善通寺西高校のグランドを過ぎると、その先に灯籠が見えました。いただいたパンフに載っていた「落亀の灯籠」のようです。旧街道の雰囲気を感じました。右折して進みます。
呉服店の脇で、三差路から続く通りを渡り、南に向かって進みます。右側には県道47号(岡田善通寺線)がほぼ並行して南に向かっています。
すぐに、旧街道は熊ヶ池の堰堤にぶつかります。そこから、右に向かい堰堤に上って進みます。
県道47号に合流します。左折して進みます。鶴ヶ峰と磨臼山(すりうすやま)の切り通しを越えると、右側の西岡池に沿って進むことになります。
県道47号は西岡池付近で左カーブして離れて行きました。旧街道は、正面の民家の左側を進んでいました。
その先の民家を過ぎたところに、通りの左側に道標が、右側に石地蔵がありました。
左側にあった道標です。正面に「手形 金刀毘羅道」と右側面に「明治12年1月吉日」と刻まれていました。また、左側面には「周防國玖珂郡高森 施主 岩本清作」と施主の名前がありました。
右側にあった石地蔵です。地蔵の正面、白布の下に、「手形 からんみち」(右側)と「手形 こんひらみち」(左側)と刻まれています。道標にもなっているようです。
左側の道標の案内にしたがって、ここで左折します。旧街道は、この先の「地蔵池」に向かって緩やかに上っていきます。
上りきったところに、赤いずきんを被った小さな石地蔵が祀ってありました。見た感じでは比較的新しい地蔵のようです。地蔵池の周辺は、平成16(2004)年に水辺公園として東屋や遊歩道、広場が整備されていますが、池の整備の時に建てられたものかもしれません。
眺望もよく、右には象頭山(ぞうづざん)が、左側の山の中腹には南部小学校の白い校舎が見えます。写真は地蔵池の向こうに見える象頭山です。この山の南の端に金毘羅宮が鎮座しています。
地蔵池の堰堤の道を進みます。厚い日射しが直射して、くらくらしながら歩いて行きます。
堰堤の先にあった地蔵です。こちらのお地蔵さんも赤いずきんを被っておられました。この地蔵があったから「地蔵池」と名づけられたそうです。地蔵の裏には「文化8(1811年)」と刻まれていました。左側の祠の前面には「寛政10戌(1798)年2月」と刻まれていました。
これは、善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。「地蔵池」から下り県道47号の右側を南に進んでいました。ルートマップにしたがって、堰堤の先を左折して下っていきます。
地蔵池の下の集落を抜けて県道47号の交差点付近に下ってきました。交差点の手前を右折して進みます。比較的新しい住宅が続く道を進みます。
左側を走る県道47号が見えました。県道47号の右側に、灯籠と道標が建っているのが見えました。その先で旧街道は左にカーブして下って行きます。
正面の民家の手前で道は分岐していました。左に向かうと先ほど見えた灯籠と道標がありました。
「下土居の灯籠と道標」とパンフレットに書かれていた灯籠と道標です。「金刀比羅神社」と刻まれた、背が高く角張ったたくましい灯籠です。道標には「左 こん比ら道」。 大麻山登山の案内看板が立っているところに設置されていました。気になったのが、この灯籠と道標がある場所が、県道47号に接した場所だったこと。金毘羅街道を多くの参拝客が歩いていた時代には、県道47号はなかったはずです。後に郷土館でお聞きすると「移設されている」とのことでした。もともと設置されていたところと思われる地点まで引き返します。
先ほどの分岐点の手前に戻りました。「下土居の灯籠と道標」は、写真の少し手前付近に設置されていたそうです。旧街道を進みます。旧街道はこの分岐点を右に進んでいました。
分岐点の右方向に進んで行きます。旧街道の前方に墓地と県道47号が見えました。
分岐点から並んでいた民家の一番前のお宅は、県道47号に接して建てられています。玄関の上に大きな木製の看板がありました。
「真宗 原御堂(はらみどう)」と書かれていました。江戸時代後期の日本画家で、自らの絵を経費に使って、参拝客が多いため荒廃していた金毘羅街道の修復に尽力した、大原東野(おおはらとうや)縁りの建物です。県道47号をはさんで東向かいにある墓地に石碑が残っているそうです。大原東野は、文化元(1804)年に金比羅に来て、丸亀街道(丸亀からの金毘羅街道)に近い苗田(のうだ・大麻町の東方)に住居を構えていたそうです。
原御堂の前方です。左の県道47号と並行した通り(自動車の左側)を進みます。ここからは、金毘羅街道は複雑な進路をとることになります。
その先を左折します。
左折して東に進みます。民家の手前で県道47号を渡ります。
そのまま進むと左前方に「なんぶ保育所」、その裏の「フラワーランド」の色鮮やかな建物がありました。手前を右折して進みます。
左側の川に沿って、道は県道47号に向かっています。県道47に出ると左折して橋を渡ることにします。
左折したら、進行方向右側に、ホテルプラハの建物が見えました。
左折して民家の前を進みます。右側の水田の先を右折して、畦道(あぜみち)をホテルプラハに向かって進みます。
畦道をホテルプラハの前に向かって歩きます。ホテルの前の通りの左側、塀の前に道標がありました。
県道47号から東に向かって道標を撮影しました。「中土居の道標」です。正面に「左に向けた手形 ぜんつうじ道 右に向けた手形 こんぴら道」と刻まれています。
側面(畦道から見た正面)には「たきのみや道」と刻まれていました。金毘羅宮方面は、ここからまっすぐ右(南)に進んでいたようです。県道47号を前方(東)に向かうと、「中土居踏切」でJR土讃線を渡り、滝宮方面に向かっているようです。
半端ない日射しの中を、多度津街道を善通寺から中土居の道標まで歩きました。「下土居の灯籠と道標」から「中土居の道標」の間は、複雑なルートをたどる旅になりましたが、正しいルートが見つからず苦労を重ねました。善通寺市立郷土館の方から、情報の手助けをいただきながら歩いた旅でした。本当に感謝しています。 次回は、琴平町の街道の終点までのルートをたどってみようと思っています。
JR土讃線の善通寺駅です。この日も、前2回と同じように半端ない暑さの日でした。
駅前にあった市街地図です。善通寺簡易裁判所は、ここからまっすぐ進んだ先の、主要地方道善通寺大野原線(県道24号)との交差点の手前にあります。しかし、この日は街道歩きの前にどうしても見てみたいものがありました。それは、善通寺市総合会館にありました。
JR善通寺駅から、善通寺簡易裁判所に向かう駅前通りに出ると、目の前に「善通寺市総合会館」の案内がありました。左折して10分ぐらい歩くと総合会館の前に着きました。
総合会館前の道路脇に、たくさんの灯籠や道標が移設されています。その中に、二つ気になる石標がありました。写真の左から2つ目の石標には「四十町岩國塩屋大(その下は地中に埋もれていました)」と、その右2つ目の石標には「五十五丁岩国屋平田○八」(○は読めませんでした)と刻まれています。多度津町立資料館でいただいたパンフレットには「多度津街道にあった灯籠と石碑が移されている」と書かれており、多度津街道に設置されていた丁石のようです。「町」と「丁」と異なっていますが、起点推定地の多度津商工会議所付近から四十町のところ、五十五町のところに設置されていた丁石かもしれません。ちなみに、多度津街道にあてはめてみると、「四十町石」は、前回歩いた区間(「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)の「下吉田の道標」から琴平寄りに1町の地点に、「五十五丁石」は、善通寺グランドホテル付近にあった(多度津町立資料館でいただいた「多度津街道丁石推定地」の資料)ようです。
善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。簡易裁判所の先で途切れていた多度津街道は、四国学院大学の先の生野本町(いかのほんまち)二丁目で左折し、その先を右折して、南の熊ヶ池に向かっていたようです。
駅前から簡易裁判所に向かう通りに戻りました。正面に山が重なって見えます。正面手前の山が香色山(こうしきざん)、その後ろが我拝師山(がはいしざん)、右側が筆山(ふでのやま)です。これに、その後ろにある中山(なかやま)と火上山(ひあげやま)を加えた五つの山(「五岳」)は、その美しさから屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれて来ました。善通寺市にはこの五つの山からつけた「五岳」というブランドのお酒もあるそうです。
駅前通りに戻り、20分ぐらい歩いて善通寺簡易裁判所に着きました。
スタートです。簡易裁判所の県道24号の交差点を左折して、四国学院大学を過ぎて次のブロックに進みます。道路標識の先に三差路が見えました。ルートマップでは、多度津街道は三差路の手前を左折しています。
他に道がなかったので、三差路の一つ手前で左折して、用水路に沿った道を進んでいきます。
善通寺西高校のグランドを過ぎると、その先に灯籠が見えました。いただいたパンフに載っていた「落亀の灯籠」のようです。旧街道の雰囲気を感じました。右折して進みます。
呉服店の脇で、三差路から続く通りを渡り、南に向かって進みます。右側には県道47号(岡田善通寺線)がほぼ並行して南に向かっています。
すぐに、旧街道は熊ヶ池の堰堤にぶつかります。そこから、右に向かい堰堤に上って進みます。
県道47号に合流します。左折して進みます。鶴ヶ峰と磨臼山(すりうすやま)の切り通しを越えると、右側の西岡池に沿って進むことになります。
県道47号は西岡池付近で左カーブして離れて行きました。旧街道は、正面の民家の左側を進んでいました。
その先の民家を過ぎたところに、通りの左側に道標が、右側に石地蔵がありました。
左側にあった道標です。正面に「手形 金刀毘羅道」と右側面に「明治12年1月吉日」と刻まれていました。また、左側面には「周防國玖珂郡高森 施主 岩本清作」と施主の名前がありました。
右側にあった石地蔵です。地蔵の正面、白布の下に、「手形 からんみち」(右側)と「手形 こんひらみち」(左側)と刻まれています。道標にもなっているようです。
左側の道標の案内にしたがって、ここで左折します。旧街道は、この先の「地蔵池」に向かって緩やかに上っていきます。
上りきったところに、赤いずきんを被った小さな石地蔵が祀ってありました。見た感じでは比較的新しい地蔵のようです。地蔵池の周辺は、平成16(2004)年に水辺公園として東屋や遊歩道、広場が整備されていますが、池の整備の時に建てられたものかもしれません。
眺望もよく、右には象頭山(ぞうづざん)が、左側の山の中腹には南部小学校の白い校舎が見えます。写真は地蔵池の向こうに見える象頭山です。この山の南の端に金毘羅宮が鎮座しています。
地蔵池の堰堤の道を進みます。厚い日射しが直射して、くらくらしながら歩いて行きます。
堰堤の先にあった地蔵です。こちらのお地蔵さんも赤いずきんを被っておられました。この地蔵があったから「地蔵池」と名づけられたそうです。地蔵の裏には「文化8(1811年)」と刻まれていました。左側の祠の前面には「寛政10戌(1798)年2月」と刻まれていました。
これは、善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。「地蔵池」から下り県道47号の右側を南に進んでいました。ルートマップにしたがって、堰堤の先を左折して下っていきます。
地蔵池の下の集落を抜けて県道47号の交差点付近に下ってきました。交差点の手前を右折して進みます。比較的新しい住宅が続く道を進みます。
左側を走る県道47号が見えました。県道47号の右側に、灯籠と道標が建っているのが見えました。その先で旧街道は左にカーブして下って行きます。
正面の民家の手前で道は分岐していました。左に向かうと先ほど見えた灯籠と道標がありました。
「下土居の灯籠と道標」とパンフレットに書かれていた灯籠と道標です。「金刀比羅神社」と刻まれた、背が高く角張ったたくましい灯籠です。道標には「左 こん比ら道」。 大麻山登山の案内看板が立っているところに設置されていました。気になったのが、この灯籠と道標がある場所が、県道47号に接した場所だったこと。金毘羅街道を多くの参拝客が歩いていた時代には、県道47号はなかったはずです。後に郷土館でお聞きすると「移設されている」とのことでした。もともと設置されていたところと思われる地点まで引き返します。
先ほどの分岐点の手前に戻りました。「下土居の灯籠と道標」は、写真の少し手前付近に設置されていたそうです。旧街道を進みます。旧街道はこの分岐点を右に進んでいました。
分岐点の右方向に進んで行きます。旧街道の前方に墓地と県道47号が見えました。
分岐点から並んでいた民家の一番前のお宅は、県道47号に接して建てられています。玄関の上に大きな木製の看板がありました。
「真宗 原御堂(はらみどう)」と書かれていました。江戸時代後期の日本画家で、自らの絵を経費に使って、参拝客が多いため荒廃していた金毘羅街道の修復に尽力した、大原東野(おおはらとうや)縁りの建物です。県道47号をはさんで東向かいにある墓地に石碑が残っているそうです。大原東野は、文化元(1804)年に金比羅に来て、丸亀街道(丸亀からの金毘羅街道)に近い苗田(のうだ・大麻町の東方)に住居を構えていたそうです。
原御堂の前方です。左の県道47号と並行した通り(自動車の左側)を進みます。ここからは、金毘羅街道は複雑な進路をとることになります。
その先を左折します。
左折して東に進みます。民家の手前で県道47号を渡ります。
そのまま進むと左前方に「なんぶ保育所」、その裏の「フラワーランド」の色鮮やかな建物がありました。手前を右折して進みます。
左側の川に沿って、道は県道47号に向かっています。県道47に出ると左折して橋を渡ることにします。
左折したら、進行方向右側に、ホテルプラハの建物が見えました。
左折して民家の前を進みます。右側の水田の先を右折して、畦道(あぜみち)をホテルプラハに向かって進みます。
畦道をホテルプラハの前に向かって歩きます。ホテルの前の通りの左側、塀の前に道標がありました。
県道47号から東に向かって道標を撮影しました。「中土居の道標」です。正面に「左に向けた手形 ぜんつうじ道 右に向けた手形 こんぴら道」と刻まれています。
側面(畦道から見た正面)には「たきのみや道」と刻まれていました。金毘羅宮方面は、ここからまっすぐ右(南)に進んでいたようです。県道47号を前方(東)に向かうと、「中土居踏切」でJR土讃線を渡り、滝宮方面に向かっているようです。
半端ない日射しの中を、多度津街道を善通寺から中土居の道標まで歩きました。「下土居の灯籠と道標」から「中土居の道標」の間は、複雑なルートをたどる旅になりましたが、正しいルートが見つからず苦労を重ねました。善通寺市立郷土館の方から、情報の手助けをいただきながら歩いた旅でした。本当に感謝しています。 次回は、琴平町の街道の終点までのルートをたどってみようと思っています。