トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで

2018年08月15日 | 日記
多度津街道は、多度津(香川県仲多度郡多度津町)から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道でした。金毘羅詣りは江戸時代後期の文化文政時代(1804年~1829年)頃から流行し始めたといわれています。天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていきました。これまで、3回に分けて、中土居の道標(善通寺市大麻町)(「金毘羅街道を歩く(1)多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記・「金毘羅街道を歩く(3)善通寺から中土居の道標まで」2018年8月9日の日記)まで、歩いて来ました。今回は、終点の金毘羅宮(現・金刀比羅宮)表参道まで、多度津街道を歩きました。

善通寺市立郷土館でいただいたルートマップです。マップには太線が3本書かれていますが、右側の太線は丸亀街道(丸亀からの参拝客が歩いた金毘羅街道)、真ん中の太線は多度津港に陸揚げされた魚を運搬したルート(「魚街道」などと呼ばれています)を示しています。今回は、左の太線(多度津街道)で示されたルートで、中土居から金毘羅宮の表参道へ向かいました。今回もルートマップに示された道を探す旅になりました。

前回、ホテルプラハの前にあった中土居の道標まで歩いてきました。ルートマップで示されたルートがなかなか見つからず苦労しましたので、善通寺市立郷土館の方に教えていただいてから再度挑戦し、ここまで歩いてきました。今回のスタートはここからです。手前の畦道(あぜみち)から、県道47号を横断し、ホテルプラハの前を抜けて進みました。

道なりに進むと、右側に「中土居会館」がありました。その先で、旧街道は大きく左にカーブします。

その後、前方の民家の左をまっすぐ進むと、JR土讃線の中土居南踏切に向かうことになります。旧街道は、民家の手前を右折していました。

右折しました。写真の右側にあるお宅の左側に、かつて「茶堂」がありました。参拝客が休憩したところだったようです。右側の民家の前にあった地蔵を見ながら進みます。

やがて、右側に戸建ての7軒からなる団地が見えてきました。団地の前から延びる道を左折して進みます。

左折した後、その道はJR土讃線の線路にぶつかります。以前小さい踏切があった痕跡があるのですが、向こう側を走る国道319号に渡ることができません。線路の前で左折して、JR土讃線と並行した道を通って中土居南踏切に向かいます。

中土居南踏切に着きました。踏切を渡りセブンイレブンを左に見ながら進んでいきます。セブンイレブンの次にあった運送会社の事務所を過ぎて進むと、右側にあるJR土讃線の線路の向こうに、歩いてきた金毘羅街道が見えました。

線路の向こう側まで歩いてきました。この先のルートを確認します。

ここからの金毘羅街道は、ルートマップによれば、現在、線路があるところを手前に渡り、その後、右斜めに進んでいました。この先の「香川マツダ販売」の店舗を斜めに進み、その後、国道319号に沿ったお宅の裏側を、国道とほぼ並行して、南に向かっていたようです。しかし、破線で示されたところは、現在では道が途絶えているようです。

旧街道の痕跡を確認するため、国道に沿った家並みの裏側に出ることができる道を探しながら進みます。マツダの販売店から6、7軒先の民家の間に、国道から左斜めに進む道がありました。

その道を進み、家並みの裏から多度津方面を見ると、草に覆われた道がありました。これが、かつての多度津街道の跡だと思いました。その先、金毘羅宮方面に歩いてみましたが、途中で、行き止まりになりました。無理して通れば抜けることができたのかもしれませんが・・。引き返して、国道に戻りました。

次に、左に入る道があったのは、琴参バスの岩崎バス停の先でした。そこで、左に入りました。

犬の散歩をされていた高齢の女性がいらっしゃいましたので、お尋ねしますと、「この道は昔からある道で、この先ずっと続いています。私はこの道を通ってお嫁に来ました」というお話が返ってきました。金毘羅街道の跡だと思いました。その道は、右側の倉庫風の建物の向こうにありました。

これが、女性のお話にあった旧街道です。お礼を申し上げ、広い畦道といった雰囲気の道を進んで行きます。途中から用水路が並行する通りになりました。

やがて、前方に「灸まん」と書かれた黄色い看板が見えるようになりました。「灸まん美術館」と「灸まんうどん」の裏を進んでいきます、

ブロック塀の右側は「灸まんうどん」の駐車場になっています。金毘羅街道は、ここからまっすぐ前に進んでいて、国道319号を渡ったあたりで、多度津から魚を運搬した魚街道と合流していました。正面の建物はファミレスのジョイフルです。

国道319号を渡った向こう側、ジョイフルとの境界の柵の左側に旧街道が残っていました。草に覆われていましたが、四国ガスのガスタンクの手前を左に向かっていました。しかし、残念ながら、ガスタンクの裏側からやってくるJR土讃線の線路のため、多度津街道は行き止まりになっていました。

迂回することにしました。「灸まんうどん」の駐車場から国道を渡り、ファミリーマートとの間の道を通り、国道319号から分岐した県道208号を左折します。

その先の大麻踏切で、JR土讃線を渡り、県道208号を進んでいきます。

踏切の先から、大麻神社の参道が右に延びていました。

大麻神社の参道の先の県道208号です。琴平の町につながっています。民家の間に左に入る通りがありました。その道を進みます。

左に入って進むと、道は正面にあった民家の手前で右にカーブします。そこへ、左側の線路の下から来る道が合流しています。この道こそ、先ほど行き止まりになった線路の向こうから続く道でした。

ルートマップでは、多度津街道は、この先で金倉川の右側(左岸)を上流に向かって歩くようになっていました。

金倉川に出ました。このあたりで善通寺市大麻町から仲多度郡琴平町に入ります。この道を金倉川の上流に向かって進んで行きます。

通りの左側と中央部に、ことひら温泉郷の温泉旅館、琴参閣(正面)と紅梅亭(左側)のビルが見えます。

さらに、進みます。琴平町高藪(こうやぶ)地区に入りました。金倉川の対岸に高松琴平電鉄の電車と琴平駅が見えました。
 
その先、旧街道の右側に、41基の灯籠が並んでいます。「高藪の並び灯籠」です。多度津街道最大のハイライトともいうべき遺跡です。いただいたパンフレットには「文久年間(1861年~1863年)以降、明治初期のものもある」、また、「漁村、漁船、廻船仲間などの寄進者が多い。江戸や上州、甲州などの信者が寄進されたものもある」と書かれています。
 
「大坂道中 陸尺仲間中」が寄進された灯籠もありました。「陸尺(ろくしゃく)」は籠(かご)を担ぐ仕事をされている人たちのことです。「江戸道中 日雇方仲間」と刻まれている灯籠もありました。それには「慶應元(1864)年乙丑年六月」と刻まれていました。また、灯籠の端の「石碑」の正面には「金毘羅 多度津 旧街道遺跡並大灯籠及鳥居」、裏には「この位置にありし粟島奉献の鳥居 昭和48(1973)年高灯籠に移す」(金刀比羅宮社務所)と書かれていました。

これは、高松琴平電鉄の琴平駅に隣接している高灯籠のある公園(北神苑)です。その正面入口に設置されている鳥居です。この鳥居は粟島の廻船仲間が、天明2(1782)年に寄進したもので、もともとは、多度津街道の終点に設置されていました。琴平町にある鳥居の中で最古のもので、石碑に残されていたように、昭和48(1973)年にこの地に移設されました。このことから、鳥居があった「高藪の並び灯籠」が残っているところが、多度津街道の終点ということになります。

もう一つ、多度津街道にかかわる石碑が北神苑にありました。右側の石碑には「奉献 道案内」と刻まれています。近くにあった説明には、「多度津街道の金比羅側の起点石」、「明和4(1767)年の建立」と書かれていました。左の側面には「従是多度津江 百五拾丁」と刻まれています。やはり、移設されてこの地に来たものです。

「高藪の並び灯籠」のある場所が多度津街道の終着点(起点)でしたが、参拝客は、この後も金比羅宮に向かって進んでいました。表参道までたどることにしました。琴電の琴平駅付近で、JR多度津駅から来た道を横断して写真の建物の間を進んで行きました。

10分ほどで突きあたりになります。ここで右折。 琴平町内を通る県道208号に出ます。「観光旅館 八千代」が目の前にありました。ここで、左折します。

県道208号に出て、次の交差点を右折すると表参道。この日も往事と同じように、多くの参拝客が金刀比羅宮をめざして歩いておられました。

これまで4回に分けて、多度津街道を琴平まで歩いてきました。
可能な限り、かつての多度津街道のルートを忠実にたどることをめざして歩きました。しかし、それは本当に難しいことでした。多くの人に助けていただきながら、何とか表参道までたどり着くことができました。
多度津町立資料館や善通寺市立郷土館を始め、情報をくださった地元の皆様、ありがとうございました。