このところ、JRの古い駅舎を訪ねています。最近、JR播但線にある鶴居駅(「明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅 2017年3月17日の日記)とJR香呂駅(「明治27年開業の播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅」2017年3月24日の日記)を訪ねました。この日は、鶴居駅や香呂駅とほぼ同じ時期に開業したJR木幡(こはた)駅を訪ねました。
これは、JR奈良線にある木幡駅の駅舎です。明治29(1896)年に開業しました。開業から、すでに120年を超える歴史を持っていますが、今も、現役の駅舎として、多くの乗降客に使用されています。
これは、JR木幡駅の入口付近の柱に貼られていた「建物財産票」です。「明治29年1月 本屋」と書かれています。「建物財産票」は「建物財産標」とも表記されますが、国鉄(現JR)が建設した様々な建物を、用途(本屋・倉庫・・・)ごとに分類し、使用開始時期を示したものだといわれています。
木幡駅に設置されていた路線案内図です。JR京都駅とJR奈良駅を結ぶJR奈良線(途中の木津駅・奈良駅間は関西本線)にあります。
京都駅から、奈良線の城陽駅行き4両編成(キハ103系)の普通列車に乗車しました。複線区間を走り、伏見稲荷大社の最寄り駅JR稲荷駅で多くの乗客が下車した後は、立ち客もいなくなりゆったりとした車内の雰囲気になりました。駅間距離が短いため電車もゆったりと走ってきました。稲荷駅の次のJR藤森(ふじのもり)駅からは単線区間となり、京都駅から16分ぐらいかかって、木幡駅の2番ホームに到着しました。写真は、乗車してきた電車の先頭車両(クハ103216号車)です
ホームにあった駅名表示です。木幡駅は京都府宇治市木幡大瀬戸にあるそうです。「木幡」の地名の読み方は様々あり、JR木幡駅は「こはた」駅、京阪宇治線の木幡駅は「こわた」駅、駅周辺には「こばた」と読む地域もあるそうです。京都駅寄りの六地蔵駅から1.0km、次の黄檗(おうばく)駅まで1.4kmのところにあります。
ホームにあった時刻表です。1時間に4本程度の列車が運行されています。「待たずに乗れる」という雰囲気で利用できそうです。
木幡駅は相対式の2面2線のホームになっています。しばらく停車した後、京都駅行きの列車が1番ホームに入線してきました。
木幡駅から見た、奈良駅方面です。2番ホームから伸びた線路は駅の出口で、1番ホームから奈良方面に向かう線路に合流しています。その先に御陵道踏切が見えました。奈良線は、この先のJR宇治駅・JR新田(しんでん)駅間が複線区間になっています。
2番ホームから見た駅舎と1番ホームの姿です。駅舎内の右側に改札口。左に駅事務所がありました。
2番ホームの中央部分です。上屋の下にベンチが置かれています。2番ホームの片面には柵が設置されていました。
2番ホームから見た京都駅方面です。屋根のない跨線橋の向こうでホームが途切れますが、その先が木幡踏切になっています。
木幡踏切より先の京都駅方面の線路です。2番ホームからの線路は1番ホームから来た線路に合流しています。京都方面からは2番ホームに入線する線路が、1番ホームに行く線路から分岐しているという構造になっています。木幡駅を通過する快速列車はまっすぐ進んで行くことができます。
2番ホームから跨線橋に上りました。2番ホームの左側にあるバラスで覆われたところは、線路があったところのようです。
これは、木幡踏切から見た2番ホームの左側のようすです。線路の跡がよく分かります。かつて、木幡駅は2面3線のホームだったのです。平成13(2001)年のダイヤ改正から”1線スルー”の配置になったそうですが、そのとき、真ん中にあった旧2番線が撤去され旧3番線の線路が新たに2番線になりました。しかし、木幡踏切の安全性を高め交通渋滞を緩和するため、写真のホームの左側にあった新2番線(旧3番線)を撤去し、ホームの右側の撤去されていた旧2番線を復活することにして、現在の相対式2面2線のホームができあがったそうです。
こちらは、木幡踏切から見た京都駅方面の撤去された旧2番線の線路跡です。かつての姿がよく分かります。この先で1番ホームから来た線路と合流していたようです。
屋根のない跨線橋を渡って1番ホームに下ります。正面の屋根のあるスぺースの右側、黒く見える屋根がトイレ。向こうの切り妻屋根の建物が駅舎になっています。
1番ホームの奈良駅寄りからみた1番ホームです。ベンチも新しくなっており、かつての面影をしのぶことができるものを見つけることは難しい状況でした。
もう少し、奈良駅寄りから見た1番ホームと駅舎です。1番ホームを覆う屋根と切妻屋根、横板を並べた白い駅舎が見えました。
青春18きっぷを示して、改札から駅舎内に入りました。待合いのスペースから見た自動改札機と、2番ホームに停車しているクハ103系車両の列車です。駅舎内の待合いスペースは広くはありません。5,6人の人がいると動きが取りにくいと感じるのではないでしょうか。
駅舎内です。左に自動改札機、正面に駅事務所。女性の駅スタッフの方は、下車した方が改札を通るたびに、深々と一礼をされていました。清潔な駅舎内に咲いた一輪の花のような方でした。ちなみに、木幡駅はJR西日本交通サービスが受託している業務委託駅になっています。
駅舎への出入口から見た待合いスペース。正面に自動券売機。出入口の柱に貼られた長い「禁煙」のカードの上に、四角の白いカード状のものが見えました。それが建物財産票です。駅舎へ入る右側の柱に貼ってありました。
明治29(1896)年に開業したJR木幡駅は、開業以来120年を超える歴史を持つ駅です。でも、現在の木幡駅は明治の面影をまったく感じることができないモダンな駅になっていました。1日平均2,762人が乗車する(2014年)駅でした。駅舎内から出て、周辺のようすを見ることにしました。駅前にある整備された舗道を、御陵道踏切に向かって歩きます。静かで落ち着いた、そして、モダンで上品な雰囲気を感じる通りでした。線路に接して建てられていた宇治市営JR木幡駅前自転車等駐車場です。
親子で来られた方が建物を撮影されていた、”京都アニメーション”の本社の建物です。この日は休業日だったようですが、壁の垂れ幕には「2017年1月より放送開始! 小林さんちのメイドラゴン」と書かれていました。子どもと一緒だった方は、この垂れ幕を撮影されていたようです。
自転車駐車場の前から木幡駅舎を撮影しました。整備された美しい風景です。時計塔の下の駅舎も風景に溶け込んでいます。
さらに、御陵道踏切に向かって進むと、木幡変電所にぶつかります。その脇をさらに進み、線路沿いに歩くと、御陵道踏切に出ます。
御陵道踏切に向かう道路の先にあった茶畑です。宇治市にいることを痛感しました。山の斜面につくられた茶畑になじんでいる私には、道路脇で育てられているお茶の葉には驚かされました。
御陵道踏切を渡ります。23K823M。奈良線の起点、木津駅からの距離のようです。木幡駅の周辺は、静かな住宅地帯になっています。御陵道踏切を渡ると道は緩やかに上っていきます。
その先にあった「御陵」の「宇治陵」です。案内には「宇多天皇中宮温子宇治陵」「醍醐天皇皇后穏子宇治陵」など20人の御柱の名が書かれていました。
引き帰して、木幡駅の京都駅寄りにある木幡踏切に来ました。こちらには、24K220Mと書かれています。御陵道踏切との間は約400mあるようです。こちらは、長い踏切を短縮する工事をしたところらしく、交通量がかなりありました。これなら、信号で停車する時間が長いのはまずいでしょうね。
木幡踏切から、奈良線を右側に見て撮影しました。緑地公園の「木幡緑道」がつくられています。
50mぐらい歩くと、自転車・歩行者専用道路になります。木幡緑道は、旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場鉄道の引込線の跡地を整備したものです。引込線の跡地を歩いてみることにしました。さて、旧陸軍宇治火薬製造所が建設されたのは、日清戦争後の下関講和条約を締結した翌年の明治29(1896)年のことでした。JR奈良線の黄檗駅付近に建設されました。
これは、綠道にあった説明です。引込線は、緑道が終わると大きく左カーブして、木幡分工場に向かっていたようです。分工場は、木幡池の先の広大な土地にあったようです。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場がこの地に建設されたのは、明治38(1905)年8月のことでした。日露戦争後の講和会議が行われていた頃でした。
引込線の跡地を歩き始めました。左側に、宇治市立木幡保育所がありました。明治38(1905)年につくられた分工場は、昭和3(1928)年に拡張工事を行い、これ以後、戦時体制に突き進んでいくことになりました。
さらに進みます。やがて、左側の民家の裏に許波多(こはた)神社があるところを過ぎます。木幡分工場は昭和20(1945)年の終戦とともに事業を終了します。そして、昭和58(1983)年、分工場への引込線の跡地が、自転車・歩行者専用道路、「木幡緑道」として整備され、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
駅名標のような案内板がありました。許波多神社の説明です。通ってきた木幡保育所と、この先にある堂ノ川が案内されています。綠道を愛する地域の人がつくられたのではないでしょうか?
線路跡らしくなってきました。線路のあった築堤が続いています。
堂ノ川の手前付近です。ここで、木幡綠道が終わります。しかし、分工場への引込線跡は、この先も残っています。
堂ノ川を渡って、線路跡をたどります。築堤の脇に車道が並んで整備されています。大きな左カーブが始まりました。
築堤の両脇の低地には、境界を示す「陸軍用地」と刻まれた石柱が、今も残っていました。
左カーブが終わり直線コースになったあたりに、鉄橋の橋台跡が残っていました。橋桁はありませんでしたが、かつての鉄道のようすをしのぶことができました。
住宅地から100m。2つめの橋梁跡。ここには橋桁が架かっていました。
築堤の上は、危険を避けるため、橋台の手前に柵に設置され通れなくなっていましたので、並行する道路を歩いていきます。京阪宇治線の線路の高架が目の前にありました。
桁下1.2mと書かれた高架下をくぐります。京阪宇治線の上に引込線の橋台跡がありました。
築堤の上に上ってみました。引込線の先の左側にパナソニック株式会社オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社です。その先に木幡池がありました。引込線は木幡池の脇をまっすぐ分工場に向かっていました。
パナソニック株式会社の先の木幡池です。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場は前方にある住宅地のあたりにあったようです。
JR木幡駅は「明治29年1月」と書かれた「建物財産票」がある駅舎を持つ駅です。長い歴史を経た古い駅舎、人通りのほとんど無いところに残っているという思い込みをもってやってきました。しかし、実際はまったく違っていました。整備された近代的な環境のもと、たくさんの人が乗車する駅のままでした。開業から120年を超えても、なお市民の方々に愛されている幸せな駅でした。